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『まる』は良質なコメディ映画。誰がなんと言おうとコメディ映画【映画批評】

大人になるにつれて、ぼーっと映画を観ることができなくなった。映画を鑑賞している間、いつも僕の脳内には邪念が渦巻いているのだ。

「このシーンにはどんな意味が込められているのか?」

「このモチーフは、なんのメタファーなのか?」

「まさか、あのシーンはラストシーンを暗示する伏線だったのではないか?」

「これは現代資本主義の矛盾を暴いているのではないか?」

「いや生命の誕生と死のサイクルを暗示しているのかもしれない」

とくにnoteで感想を書くことを前提にしてしまうと、鋭い批評を書いて座布団をもらいたいという邪な動機で映画を観てしまう。『まる』も例外ではなかった。『まる』は、どう見ても仏教にまつわるメッセージが秘められてそうな映画である。奈良出身で、しょっちゅう薬師寺でライブをしている堂本剛が起用されていることも、どうにも意味ありげだ。「これは鋭い批評を書けそうだ・・・」という下心で知的陰茎を勃起させながら、僕は映画館に向かった。

さて、冒頭シーンは僕の期待を裏切らなかった。ベッドに転がっていた剛がいきなり、『平家物語』のイントロダクションを狂ったように暗唱し始めるのである。

「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす おごれる人も久しからず・・・・」

まるで「これは仏教の映画ですよ? さぁみなさん、深い東洋哲学にまつわる洞察を見せてごらんなさい!」とでも言いたげである。僕も興奮しながら身構えた。身構えてみていたのだけれど、その後の鑑賞体験で僕は監督が仕込んだ深い洞察やメッセージ、知的なメタファーをほとんど発見できなかった。

発見できないまま観ていたら、気づいたら僕はあれこれ勘繰るのをやめて、ただボーっと映画を観ていた。集中していなかったわけではない。感情移入もしていたし、ストーリーもしっかりと追っていた。だが、ただあれこれ勘繰るのをやめたのである。

なにがそうさせたのか? この映画は単純にストーリーがおもしろかったし、キャラクターが魅力的だった。いちいちクスリと笑わせてくれる仕掛けがちりばめられていた。意味があるのかないのかよくわからない展開や仕掛け(「なぜか地震を予言する謎のジジイや、「禁煙」と書かれた部屋で火をつけないまま煙草をくわえる古物商、なんの説明もない低身長のピンク髪によるホラー要素」)も、なぜかおもしろかった。ただ、映画としておもしろかった。

どうやら僕は頭でっかちに映画を観るのではなく、ありのままに目の前にある映画を楽しめばよかった。あれこれ考えずに感情の赴くままに楽しめばよかったのだ。

堂本剛扮する「さわだ」がそうしたように。

さわだも、僕と同じように感情に身を任せて人生を楽しむ方法を知らない男だった。しかし、映画を通じて、彼は感情のまま、欲望のままに生きる方法を学んでいく。そして僕は、彼の生きざまを、鑑賞のなかで追体験してしまった。

ストーリーはこうだ。

冒頭のさわだは、画家になる夢を諦め大物芸術家のアシスタントの一人として極貧生活を送っていた。その大物芸術家はなにもしないくせにさわだのアイデアを我が物顔で使用する。また、横暴な性格でもあるようで、冒頭シーンではほかのアシスタントを怒鳴りつけていた。

さわだは終始無関心である。いや、無関心を装っていた。さわだの抗議の気持ちは、徐々に荒っぽくなる筆遣いにほんのわずかに表現されていたのだが、それでも無関心を装っていた。その後、その出来事に腹を立てた別のアシスタント(吉岡里帆)がさわだに対して「このままでいいのか?」と声を荒げたのに対し、さわだは「法隆寺がどうのこうの・・・」という逸話でケムに巻き、現状肯定のスタンスを示した。

僕は冒頭のさわだのスタンスが「なんちゃって悟り」であるように思えてならなかった。「僕は悟ってますよ? 『絵を描きたい』といった欲望も捨てちゃってますよ? 俗世の些事にいちいち心を乱されませんよ?」といった具合である。家の中で大声で叫び、金が入ったと見るや「寿司奢ってよ」と馴れ馴れしくいってくるチンピラの隣人(綾野剛)にイラつかされてはいたものの、それでもずっと平静を装っているように見えた。

そんななんちゃって悟りの日々も終わりを告げる。なにげなく描いた彼の円相がひょんなことからアートディーラーの目に留まり、新進気鋭の現代アーティストに祭り上げられてしまった。そしてさわだはひっきりなしに円相を描くように迫られるようになった。飛び交う金に目がくらんださわだは、意味ありげなインタビューに答えたり、パーティに参列したり、求められるアーティスト像を演じようとしていた。

さわだはこのとき謎のピンク髪のキャラクターに言われたようにだった。金のため、市場の求めるがままにブヒブヒと鳴く豚だった。しかし、同時にさわだは豚になりきることもできなかった。だからこそ、パーティと円相のアートをアンチ資本主義の活動家(?)と化した吉岡里穂がめちゃくちゃに壊した事件と、その後の綾野剛との対話の経て、さわだは自分の中にずっと息づいていた「描きたい」という欲望に気づくことができた。

この一連のエピソードは映画史に残る名シーンだと思う。

吉岡里保がさわだを見つけてニコッと笑ったときの、憑き物が取れたような晴れやかなさわだの無表情。あの無表情は、この映画でしか観られない無表情であった。

また、綾野剛との対話のなかで「絵を描きたい」という一言を残して泣き、なぜかそのまま眠るシーンも同様である。ここまでマグマのようにふつふつと抑圧されてきたさわだの感情が発露され、頂点に達し、涙を流し、そのまま眠る・・・・とにかく圧巻であった。繰り返すが、映画史に残る名シーンである。

(余談だが、「泣きながら寝る」という手法は映画ではほとんど観たことがない(ないよね?)。僕は、子どもが怒って泣いたときは、なぜかそのまま寝ることを思い出した。どうにも感情の発露には莫大なエネルギーが必要らしい。)

さて、この怒涛の急展開から一夜明け、さわだは欲望のままに生きはじめる。世間が求めるアーティスト像も無視し、ディーラーの思惑も無視し、ひたすらに描きたい絵を描いた。案の定、その絵はディーラーには不評であり、うえからさわだのトレードマークである「円相」を描くように指示された。実際にやってみせたところディーラーたちは大満足であったが、さわだはそのまま思いっきり絵を殴って貫通させてみせた。もはや無関心を装いながら筆先にいら立ちを載せるだけのさわだではなかった。さわだは、自分は豚をやめたのだと元飼い主たちへ高らかに宣言したのだ。

(とはいえ、その貫通した絵すらも最終的には海外の美術館に恭しく鎮座することになる。なんとも資本主義をおちょくった演出である)

こうしてさわだは目の前の現実と、自分の感情を、ありのままに楽めるようになったというわけだ。これでよかった。僕たちも同じだった。小難しいことは考えなくてよかった。ともかく目の前に提供された『まる』という大福をただ食らえばよかったんだ。

・・・と油断すれば分析めいたことを書いてしまうのだけれど、ともかく、ただ展開されていくストーリ―を楽しめばいいのである。難解で高尚ぶった映画だと身構える必要はない。くすりと笑わせてくれるキャラクターや展開で埋め尽くされていて、あっという間に時間が過ぎていった(とくに綾野剛のキャラクターがたまらなく良い)。

そういう意味で『まる』はコメディ映画である。誰がなんと言おうとコメディ映画である。


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久保一真【まとも書房代表/哲学者】
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