文学とは何か
いずれ自分の論文の要約ぐらいは日本語で書かねばならない外国人に作文を指導している以上、自分自身、日本語で文章を綴ることの意味・本質について考えることは重要だと考えています。
そんなこともあって、かなり手垢のついたこの命題の答えを求めて創作小説などにも手を染めています。
以下は「学問としての文学」ではない、書き手から見た文学論、まあ素人の戯言ですw。
文学とは
まずは手っ取り早く、Wikipediaから引っ張ってきた定義を分析してみましょう。
色々と詳しく書かれていますが、自分の中で重要なポイントは以下の通りです。すなわち、
「言語表現による芸術作品」
という部分です。特に近年、口承よりも書き留められたものがその主流になってきていることを考えると、
「文学」とは「文芸」であり、それは「テキストを用いた芸術」
としてもいいのではないでしょうか。
この点で、同じく芸術の一種ではありますが、絵画や映像、音楽とは異なる種類のものであるということです。また、学問としての文学とも明確に切り分けておきたいと思います。なぜなら、学問とは真理の追究であり、意味や定義のすり合わせ・確定を前提としますが、文芸、すなわち芸術にあってはさまざまな真理が存在するという態度が許容されると考えるからです。余談ですが、以下に触れるテクスト論的な立場に自分はあるのかなと考えます。
さて、文学とは「文芸」であり、それは「テキストを用いた芸術」としましたが、ではテキストは全て文芸なのかというとそうではありません。新聞記事や論文などを文芸とすることはありません。一般的なテキストと文芸としてのテキストを分ける基準は何かということで、サリー・イグルトンという研究者の言葉を引用しておきます。
母語と文芸
私は普段は外国語で仕事をすることが多いんですが、上記イーグルトンの定義を踏まえつつ、文芸が単なるテキストの記述ではないことをお話ししたいと思います。
生意気にも「普段仕事で外国語を使います」と言ってはみたものの、残念ながら、使えるどの外国語もとてもネイティブ・レベルなんてものではありません。ただ、ここで言う「レベル」とは発音が美しいとか、流れるように言葉が出てくるといった現象を指すものでもありません。文芸活動との関連で言えば、ある意味を持つ一つの言葉から母語話者は色合い、寒暖、快不快、場合によっては映像や音声も連想可能ですが、こういったことはその言葉が話されている社会に自分自身の根がしっかり広がっていないことにはなかなか身につけられるものではありません。私には日本語以外で言葉の意味以上のものを汲み取ることは不可能だということを意味しています。
さらには言葉同士にはある種の親和性というものがあり、それは日常性を担保しています。「真赤な太陽」や「かわいい子犬」といったような表現はこうした担保の機能を担っているのであり、「日常言語を変容させた」ものでは決してありません。これを可能たらしめるにはかなりの語彙力やその背後にある深い文化的理解力も必要でしょう。この点も、私が立ち入るのが不可能な領域です。
私が日々、仕事で書き散らす多くの文章、それは日本語であれ、英語であれ、オランダ語であれ、いずれも「それ独特の方法で言語を使用している」わけではなく、読み手にポイントをしっかり伝えるため、極力誤解が生じないように配慮しながら、ごく一般的な方法で言語を使用した結果に過ぎないのです。それは日常性の維持に努めていると言い換えることができるかもしれません。逆に、下手くそながらも創作小説を書いている間は文字通り「日常的発話からシステマティックに逸脱する」ことを目指しており、文芸活動をしている自分がそこにいます。
よって、外国語による文芸活動の可能性は私にはゼロです。
学問としての文学
ここで少し視点を変えて、学問としての「文学」の中身を考えてみたいと思います。
文学研究の方法論は二つに大別されるようです。書き手の視点からアプローチする「作家論/作品論」、反対に読者の側に重心を置いた「テクスト論/読者論」です。
作家論とは文字通り、ある作家の全ての作品を通して、作家が伝えたかったことを探ろうとする研究だそうです。作家個人について研究するものですね。なかなか壮大な目標設定です。こうしたことを探ろうとすることで、ある作家の時代的意義を描いたりできるのではないでしょうか。
作品論も文字通りで想像できるかと思います。それはある作家のある作品からその作家の言いたかったことを読み取ろうとするものだそうです。こちらは「作品が書かれていた」という時間的限定が設けられるとともに、一つの作品の中での作家の考え方、まあ小説意図のようなものを扱うといったことになるでしょう。
対する「テクスト論/読者論」ですが、前者は文章を作者の意図に支配されたものと見るのではなく、あくまでも文章それ自体として読むべきだという考え方だそうです。なんだかわかっていることのようで、よくわからないですが、簡単な例を挙げれば、昨今のTwitterなどに見られる、誰が書いたか、どんな属性の持ち主の発信かなどといった周辺情報を一切省いたテクストのやり取りという風になるとの指摘があります。なるほど、書いた人と読んだ人を結びつけるのはテクストそのものだけですね。
さらに読者論ですが、一応定義としては以下のものがありました。
「で?」といった感じで、具体的にはよくわかりません。まあ、書く側としては一旦書き上げてしまえば後はどう読まれようと知ったこっちゃないというところがあります。というわけで、この辺はあまり関心もないんですが、将来、勉強して何か気づきがあったら加筆するかもしれませんw。
私の読書術
ここで読者としての「私」についても触れておきましょう。書くからには読まないと自己鍛錬になりません。ただ、「面白かった・面白くなかった」、あるいはちょっと背伸びをして「感情移入できた」と言うだけでは日常性そのままです。私自身、読書の際は結構分析的に読んでいます。だから読むのが遅いんですが・・・。
個人的に、読んだ作品の良かった点・良くないと思った点をそれなりにまとめていますが(非公開)、その評価は「心・技・体」という三つの指標を用いて行なっています。
心:表現の巧みさ→舞台・心象風景の描写の巧拙。
技:プロットの巧みさ→ストーリーの組み立ての巧拙。
体:作品を支える作家の思想・人生観・小説意図→「なぜこの作品が書かれねばならなかったのか」を考察。作品論に相当?
文芸作品はこの三つのバランスの上にあると考えています。その上で、小説というテクストを文学作品たらしめるものは「心」と「体」だと思っています。前者は読者を日常性からの逸脱に誘い、後者は作品の社会的・歴史的存在意義を問わしめるというものです。
海外に暮らす以上、作家の背景については自ら調べようとしない限り知りようはありません。その意味で、「心」と「技」はまさしくテクスト論のようなアプローチになっています。他方、全体を通して作者の小説意図を探ろうとしてもいますので、この点では作家論・作品論的なアプローチになっていると思います。
で、文学って何なのよ?
以上、書き手・読み手・研究者という様々な視点から「文学とは何か」を考えてみました。色々な視点が絡み合ってしまったので、最後に整理しておきたいと思います。
まず最初に考えるべき点は、学問としての文学と芸術活動としての文学(=文芸)を分けるということです。その上で、学問から切り分けられた文芸(狭義の「文学」?)とは「言語を使用した芸術活動」と定義することができるでしょう。さらにここで「では、芸術とは何か」という点も確認しておかなければなりません。
ここからは私自身の結論になります。それはイーグルトンの言葉とWikipediaの定義を借りるとするならば
文芸あるいは文学とは、言語活動を実践することによって『日常性を変容させ、濃密にし、日常的感覚からシステマティックに逸脱』させ、そして、それを介して『表現者あるいは表現物と、鑑賞者が相互に作用し合うことなどで、精神的・感覚的な変動を得ようとする活動』
となるかと思います。
例として、窓の向こうで雨が降っているとします。この現象を表現するとした場合、
雨が降っている。←日常的感覚から逸脱していない。文芸ではない。
灰色の空が涙を流している。←普通じゃない表現。文芸っぽいw。
ただし、以上のように言葉を重ねていったところで、結局、ある作品が文芸(=文学)かそうでないかを分ける客観的で明確な線はないと思っています。境界部分はあくまで人それぞれのグラデーションのようなものだと思っています。例えば、『後ろの席の彼氏』というラノベは非常に日常的な表現で綴られた作品で、プロットも平坦、作品を支える作者の小説意図なるものは強く感じられませんでした。この場合、文芸性は低いと言えるかもしれません。しかし、書き手の読み手との間にはハラハラしたり、ドキドキしたりといった相互作用のようなものは確かに生まれているはずです。この点では文芸性はあるんでしょう。
ラノベの文学性については機会があれば改めて別稿としてまとめたいと思いますが、以上が、私が考える文学論です。強引に筆を置きますw。
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