毒育ちが考える友人
(タイトル画像はいらすとや様よりお借りしました)
友人の定義
突然だが、皆様にとって友人の定義とは何だろうか。私の毒祖母はよく私の母に対して「アンタ(母)は友人がいない、私はたくさんいる」とのたまっていたが、彼女の言う友人とは友人ではなくてせいぜい知人程度だったと私は(勝手に)認識している。そんな毒祖母の勘違い甚だしい言動を身近で見ていた立場として、ふと「友人とは……?」という疑問に至り、今回の主題を定めた次第である。
以下は筆者自身の友人の定義である。
パーソナリティが不安定な私が考える友人の定義とは、一般的なものよりもかなり堅いのかもしれない。よく「友達の友達は友達」と言う方がいらっしゃるが、「んな訳あるかァ!友達の友達は、初対面ならまだ知人やろ!」という感覚である。
その友人という枠の中にはさらにヒエラルキー的なものが私の腹の中には存在する。たとえば「あの人はここまでかな」や「この人には、ここまで許せる」だとか。というのもキャパシティーが非常に狭い私は、多くの人に対して真正面から向き合えないゆえにそのように“選別”させてもらっている。言い訳がましいが、そうした方が自分も相手も損しないと思うからだ。
多少の曖昧さはあれど、夕食を共にしたり盃を交わした経験は親密度を測る上でかなり大きいと私は感じている。もちろん同級生や同僚と友人を兼ね備えてるケースもあるだろうし、とにもかくにも友人、友人と知人の間くらい、知人程度という隔たりは必ず存在すると私は考えている。
友人と知人の境目
そのような隔たりは自分自身はもちろん、相手にもそのような基準が存在する可能性があることを、自己愛が強めな毒親や人間は忘れがちである。おそらく毒祖母のように自己愛が強い人間とは、「友人(のような存在)がいる自分」がほしいだけなのだ。友人(のような存在)と楽しく過ごす自分、友人(以下略)とおしゃれなカフェに行く自分、その状況に酔いしれて満足してるだけである。彼ら彼女らにとっては、「誰と何をして、何を感じるか」よりも「自分が友人()と何をするか」が重要なのだ。無論毒祖母もその通りで、サークル仲間を都合のいい友人()として利用していたに過ぎない。冒頭でも述べたが、そんなのは傍から見れば友人などではなくてサークル仲間の範疇を越えない、知人程度しか見えなかった。
そもそも友人関係とは、いかなる理由でも「この人と親しくなりたい」「彼/彼女のことをより知りたい」という思いが芽生えた上で、相手も同じ気持ちになって初めて成立するものだ。それが自己愛が強い人間は友人(のような存在)を演じてくれさえすれば、誰でも構わないのだ。
そういえば毒祖母が入院した際、友人と称されていた方々は誰一人として見舞いに来なかったのだが、これ以上の皮肉はない。都合の良い時だけ会って楽しく騒ぐ相手とは、本当に友人関係と言えるのだろうか……と私は今もなお疑問に感じている。冒頭にも記したが、楽しいことや前向きなことを共有するだけではなく、辛さや悲しみにも互いに寄り添えるのが、友人と呼べる存在なのではかろうか。そしてそれは決して金銭でどうこうなるものでもなく、「たくさん奢ったから、たくさん会ったから親友ね!」とは絶対にならないのだが、サークル仲間に媚びを売るべく奢りまくっていた毒祖母はきっとこの真理を理解していないだろう。
もっとも厄介なのは、相手にとっては同僚や同級生などの知人程度の関係なのに、その相手を友人と勘違いしてるパターンである。せいぜい知人程度の仲の先方に安全基地を求める、その関係性を越えた何かを要求することほどみっともなくて迷惑なことはないだろう。
友人を追い求める先には
言葉が汚くて恐縮であるが、「人間関係の入れ喰い状態」でもっとも若くて魅力的だったはずの時分に誰からも相手にされなかった人間が、年を取ってからどうこうできるのかという話である。
個人的な持論として、若い時に勉強できなくても人に誇れる才能がなくとも友人がいた経験、つまり(一時的でも)誰かの“特別”になれた経験は、その後の人生に大きく左右すると言っても過言ではないと思う。しかし友人をつくると言っても結局は容姿が優れている、秀でた才能がある、せめて最低限の身だしなみや特技、趣味を持ち合わせているなど何か“一芸”を持たないと難しいのが現実なのかもしれない。しかしその“一芸”には、もちろんパーソナリティも入るはずである。たとえ何も取り柄が無いとしても最低限の礼儀や人格があれば、自然と人は集まってくるのではないか。
ただ青春時代にそこで躓いてしまうと、大人になっても色々と引きずってしまうのだなと感じる次第である。社会人以降に必死に友人を追い求めている、勢い余って(令和版)新興宗教やマルチ商法のトラップに引っかかってしまう可能性はかなり高く、そのような場所で友人(のような存在)を見出してしまうケースも多々ある。
その心情をまったく理解できないことはないが、金を払ってまで友人や居場所をつくろうとする異常さに私は辟易してしまう。同じ金を使うのならば、素直にレンタル彼氏/彼女、代行業、水商売などを利用する方がまだ健全に思えてしまうほどに。後者ならばまだ「客」として扱ってくれるが、前者は友人の素振りを見せながら腹の底では相手を「金」そのものとしか認識していない。その冷酷さを知らない人、その酷さに薄々気づきながらも眼前の友人(のような存在)に追いすがる人も昨今少なくはない。その友人と思い込んでいる相手が仮に冒頭の条件を満たしているとしても、本当の意味の友人には絶対になり得ないと私は思う。その相手とははあくまでそのコミュニティの仲間、それ特有の表現としての「何とかメイト」とか「何それメンバー」に過ぎないからだ。
それでもそのようなコミュニティが友人に飢えている人のセーフティネットになっているのならば、そう頭ごなしに否定することはできまい。『ミッドサマー』かよ。
孤独感が人を狂わせる
確かに青春時代に友人は必要かもしれないし、彼ら彼女らは自分の人生を色鮮やかに染めてくれるかもしれない。しかし私は最近「はたして大人になってから友人は必要なのか?」と考える時がある。今のご時世、カフェに行きたきゃ、一人で行けばいい。食べたいものがあれば、大抵は一人でも構わない。私には姉や母が居るから、たまには家族と一緒でもいい。何よりも「本当に好きなところ(こと)なら、一人でもいける(できる)っしょ」というスタンスでありたい所存だ。(私が根っからのインドアソロ活好きというのもあるが)
たとえ友人と呼べるような存在が居なくとも、「一人でも楽しめる、信頼できる家族や親戚が存在する、自分で責任を取れる人」は孤高であり、ひとりで居られる能力が高い人である。逆に「一人では楽しめない、信頼できる家族や親戚が不在、常に不安で無責任な人」は孤独で、ひとりでいられる能力が低いと言える。
すべてはその孤独感が、人を狂わせていくのかもしれない。先述したように知人や同僚、あるコミュニティの仲間といった相手に対して「その関係以上のものや役割」を求めてしまったり、新興宗教や胡散臭いセミナーやらに金を落として友人のような存在を得ようとしたり、と。そしてその孤独感の根底には、安全基地の不在という原因が常に潜んでいると私は考える。
信頼できる存在を知らない人間が、その虚無感や耐え難い孤独感から延々と友人(のような存在)を追い求めて彷徨う様には、憐憫の情とある意味の皮肉を感じてしまう。孤独を埋めるために友人をつくるのか、もし友人ができたとしてのその孤独は本当に消失するのか……もうこれ以上は、何も言うまい。
極論として、私の毒祖母よろしく友人(のような存在)と共にトコトン自己心酔の海に溺れるのも私は決して否定しない。ただ一つだけ言わせてもらうとすれば、その海は想像を絶する深さであるということか。その友人(のような存在)が、いつ何時その手を放すか分からない──なぜならば、そこには信頼も情けもへったくれも無いからだ。その手を解かれたら最後、自分だけが深い深い海中に堕ちていくだけである。
そもそも家族関係もままならない人間が、どうして人並み以上の努力もせずに他人と交際できるのかと、私は常日頃から感じている。毒祖母についても、次回の意味も込めて自分自身に対しても。もしも喉から手が出るほど友人という存在を欲しているのにそれが実現しない場合は、今一度己のパーソナリティや言動、家族関係を見直さないとなかなかに難しいのかもしれない。
こう考えると、本当に毒親/毒家族のもとに生まれることは現代社会における呪いあるいは障害の一種であるとしか思えない。
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