金田一耕助とクレヨンしんちゃんの天使性を物語に取り込む方法について考える
テレビをつけっぱなしにしていたらBSで市川崑さんが金田一耕助のキャラクター性について「天使」と語っていた。
私にとって天使キャラ(妖精キャラ)といえば『男はつらいよ』の寅さん、『クレヨンしんちゃん』のしんのすけ、『スキップとローファー』のみつみちゃんなどがいるが、市川崑さんが犬神家を撮っているときに「金田一は天使」と言っていたらしい。
天使は極めて自分本位に行動する自由人にも関わらず、周りの人間に影響を与え、多くの場合、ハッピーにして去ってゆく。
欧州のキリスト教系の孤児院では孤児のことを「天使」と呼ぶらしい。人間が成長するときに最初に関係を結ぶのが、多くは親で、そこを基準にして他人との人間関係を測っていく。孤児は親がいない。なので初期値として神との関係を基準にする。だから天使という比喩を孤児に使っている。
寅さんにとっての「神」とは「世間」なのかな。寅さんは1936年2月26日(226事件の日)にくるまやの軒先に置き去りにされた孤児という設定で、「世間」という「神」のもとで生きることが窮屈で、柴又を出てテキヤとして生きる。これは山田洋次監督が『悪童 小説寅次郎の告白』の中で語らせたこと。
しんちゃんもみつみも、幼稚園や高校で浮いた存在として描かれている。浮くことで2人とも自由に生きられる。ここでも「所属しているコミュニティ」が「神」で、そこから離れることで自由に生きることができ、それが周りの人間達を幸福にしていく。
天使キャラは所属すべきコミュニティから遊離していることで、寂しさを抱えながら自由に生きるキャラのことだと思う。そこで金田一耕助だ。金田一は、物語の中で常にストレンジャーだ。コミュニティのなかでストレンジャーとして自由に犯人探しが可能で、その結果、コミュニティから去らねばならない。
『ベルリン・天使の詩』という映画の中で、恋に落ちた天使が地上に落ちてきて血を流すシーンがあるけど、天使はコミュニティに所属して、人に恋をすることになるとその「純粋理性」を失って盲目になってしまう。これだけいろいろなバリエーションが世界各地でウケていることを思えば、こういう人生におけるトレードオフがある物語構造が人間にとっての好物なんだと思う。
寅さん、金田一耕助、しんちゃん、みつみなど、みんなが一種のストレンジャーとしてコミュニティの外から、コミュニティの住人に自由になる勇気を与える物語になっている。市川崑さんの40年くらい前の映像にいいヒントをもらって、いい言語化ができた。『犬神家の一族』を見直したくなった。