短編小説「都会の星」
青年は立体駐車場の屋上に停めていた車の鍵を開け運転席に座った。そして腰をつけたシートが日差しの暖かさを内包していることに気がついた。春の訪れを身近に感じるのは、案外こう言う瞬間である。昨日まで雲に掩われていた太陽が、東に流れ消えた雲を尻目に、その輝きを無遠慮に放っていたためであろう。太陽は西へ大きく傾き、都心部のこの場所からは乱立するビル群に隠れ姿は見えない。もしもセリヌンティウスの処刑場がこの場所だったならば、既に彼の首は胴体から切り離されている事だろう。
青年は車の鍵を閉め、座席を深く倒した。男の乗っている車には装飾品は勿論、消臭剤や掃除用具などの備品はひとつも載っていなかった。そのため座席を倒すと、ある程度の自由がきく空間が現れる。そして、天井のサンルーフからは赤子の頬を思わせる色に染め上げられた空が見えた。青年は今日のために、この何者にも邪魔されない空間を準備した。理由はとてもシンプルで、この姿勢でこれから訪れるであろう夜空の星を、じっくりと眺めるためである。
青年はこの場所で星を眺め、都会で生き抜く英気を蓄えようとしていた。今日は冬の星座として有名なオリオン座をはじめ、北の空に瞬く北斗七星。その少し上に位置するキリン座、さらに空気の澄み具合によっては、火星も見る事ができる。星の瞬きは彼の幼少の頃から少しも変わらない。その不変さは地元を離れ都会で働き暮らす彼にとって、故郷を身近に感じる手段に最適であった。都会で生き抜くために地元を感じていたい。彼の行動はとても合理的であった。しかし、1つだけ大きな誤解をしていた。都会の喧騒を溜め込んだ空気では、彼の望む星々を見ることはどうしても叶わないのである。
「そうか、ここではいつまで待っても星を見ることができないのか……」と、青年は呟くと、右腕につけている腕時計を確認した。新雪を思わせる白い腕時計は、時を告げる機能に不釣り合いなほど気品さをもち、青年に日付が変わったことを語った。青年は倒していたシートを普段使いの高さまで上げると、車のエンジンをかけた。エンジン音が唸ることはなく、立体駐車場を包む静寂を掻き消す心配は無用であった。そして青年はギアをドライブに入れる前に、大きなため息を車内に一つ溢し、独り言を呟いた。その独り言はエンジン音と比べてしまうと、少しばかり煩かった。
「田舎はやっぱりダメだ。子供の頃よく親に連れていってもらった、プラネタリウムみたいな綺麗な星なんて全然見えない。来週末は地元に帰って久しぶりに本物に触れてこよう」青年は渋々、来週末に地元である大都会へ帰省することを決めた。