【追悼・大崎善生さん】藤井聡太 王位就位式での「声なき祝辞」全文掲載
作家の大崎善生さんが2024年8月3日、66歳でお亡くなりになりました。
弊社では『パイロットフィッシュ』をはじめとする小説、ノンフィクション『聖の青春』『いつかの夏 名古屋闇サイト殺人事件』など数々の作品を刊行させていただきました。深く感謝申し上げ、心よりご冥福をお祈りいたします。
下咽頭がんの闘病中だった大崎さんは、昨年、将棋の藤井聡太王位の就位式に出席し、声帯を摘出し声を失ったことを告白。夫人である高橋和さんの代読による祝辞は「声なき祝辞」として聞く人に大きな感動を与えました。
追悼の意を込めて、ここにその祝辞全文を掲載いたします。
※本記事は2023年11月9日にカドブン(kadobun.jp)に掲載した記事の転載です。
「声なき祝辞」全文
藤井さん、この度の王位防衛そして前代未聞の八冠達成誠におめでとうございます。
このような形で妻に代読してもらうという失礼をどうかお許し下さい。
病気で声を失ってしまったものですから申し訳ありません。
昨年の1月ころにある日突然に声がしゃがれてしまいました。まあいいやと放って置いたらやがてまったく声が出なくなってしまいました。
そんな状態で約半年。ずっと声が出ません。
さすがにおかしいと思い、駆け込んだ近所の耳鼻科ですぐに大学病院に行くようにと指示され一人で車を運転して向かいました。
いくつかの簡単な検査を受け驚いたことに午後には緊急手術を受けることに。
喉や気管に何らかの問題があり、すでに呼吸困難が生じているということ。放って置くと意識が混濁すると言われました。
ドリルのようなもので喉元に大きな穴をあけられ、空気の通り道が作られるとともに声を失いました。設置されたのは永久気管孔といいます。
そして何の選択の余地もないままにその日のうちに入院。
病院のベッドに横たわり突然の運命の急変、自分の身に起こったことを確かめるのが精一杯。考えてみればその日の朝にはいつものように朝飯代わりにビールを飲んでいたのです。
後日出た検査の結果は恐るべきものでした。
咽頭癌のステージ4のb。
最悪の喉回りの癌の上に全身に遠隔転移。
体力も落ちていて手術も抗がん剤もできないというものでした。
ただ死に向かって横たわっているしかない。
そういうことでした。
左手にあるナースコールのボタンが命の綱です。気管孔をあけたばかりの初心者の私は痰を自力でうまく処理することができず、息が苦しくなってきます。そしてもがくようにナースコール。飛んできた看護師さんは大急ぎで吸引してくれて、息が通り、ほっと一息。私がナースコールを押すと夜中の3時でも4時でも、看護師さんはいつでも飛んできてくれます。栄養剤と点滴と看護師さんたちの介護により私は3週間で少しずつ体力を取り戻していきました。
ある日主治医が部屋に現れて「やってみましょうか」と言いました。
手術のことです。
「まあ希望は薄いけどやるだけやってみますか?」そんな感じでした。
手術は12時間。喉元を切開され喉仏や声帯や食道や甲状腺を切り取られ、切開した首回りから96か所の腫瘍を摘出、腹を裂いて腸を切りそれを食道の代わりに移植する、という大がかりなものでした。
後日、私はICUのベッドから起き上がり点滴を引きずりながら看護師詰所へ。
若い女性看護師さんの隣に腰かけこう言ったそうです。午前3時のこと。
「将棋しよう?」
「はい?」
「だから将棋。将棋しよう?」
大きな手術後の患者にありがちな妄想の第一位は病院にいる者は全員自分の敵で、自分を殺そうとしている、というものらしいです。
私もその妄想の中にありました。
だから将棋を指して仲良くなり一人ずつ味方に引き込もうとしたのだと思います。
「ごめんなさい、私。将棋できないんです」
と看護師さん。
優しい彼女はそんな調子で2時間も嫌な顔もせずに付き合ってくれたそうです。
個室に戻され、また天井を眺める日々。65kgだった体重は45kgにまで落ちていました。ある日部屋を訪れた男性看護師が「藤井さんがまた勝ちましたよ、朝テレビでやっていました」と教えてくれました。
この看護師さんは本当に気の利く男で、いつも現れるとベッド周りを私が操作しやすいように私の立場に立ってリセットしてくれました。ナースコールはここ、テレビのリモコンはここ、テレビは近づけて点滴はこちらに回して邪魔にならないように。ベッドもシーツからすべて綺麗に整頓してくれます。嫌がる私をなんだかんだと言いくるめて連れ出し、頭を洗ってくれました。歩くのを面倒くさがる私をいつも車椅子に乗せて連れ出して病院内を回り、そして庭で外の空気を吸わせてくれました。外の空気に触れるのは1か月ぶりのこと。その患者の気持ちを思いやるひとつひとつの行為が胸にしみました。
別れ際にはいつも「大崎さんは直りますよ。必ず」。
そう言って肩を叩いてくれました。
MASTERY for SERVICE
十数年前に取材で訪れた大の将棋ファンだった団鬼六先生の出身校の壁に刻まれた言葉です。
この学校の建立精神そのものを示しています。
奉仕のための熟練。
「キリスト教からヨーロッパの職人たちに古くから伝えられる基本的な精神。つまり出来る限りの努力を重ねて技術を磨き、それを持って人のために奉仕しなさい、ということですわ」一緒に訪れた団先生が解説してくれました。
私は病床でその言葉をかみしめていました。
周りにいる医者、看護師、薬剤師、栄養士、リハビリのコーチ、一人一人のスタッフが、学校で懸命に学び、技術を磨き、それで惜しみなく奉仕してくれている。
それを毎日感じるようになりました。
「抗がん剤から放射線をやってみますか?」医者がある日私に言いました。
ステージ4のbの一年生存率は部位によって違うものの20パーセントから40パーセントといったところでしょうか。まあ私の場合は癌も取り切れず、転移もあるということなので30パーセントくらいかな、と割と気楽に考えていました。崖っぷちという言葉がありますが、それを通り越して崖に腰かけて足を投げ出しブラブラさせているような状況だったかと思います。
藤井さんの王位戦がはじまっていました。去年の夏のこと。
部屋に来る看護師さんたちがかわるがわるその結果を伝えてくれました。
中には私の小説の大ファンで新婚旅行はパリやニース、私の小説の舞台となった街を訪ね歩いたんですよ、という方も。村山聖のアパートや更科食堂を見てきました、という人も。
看護師さんは読書家が多く、思わぬ数の人から読みましたと言われることが多くなり、まあそうやって私を喜ばせてくれているんだろうなと考えたりもしました。
妻に家にある私の本をどんどん持ってくるように頼みました。
せめてものお礼に希望する方に差し上げようと思い立ち、部屋の片隅の机の上に書店のように平積みで並べておきました。「ご自由にお持ちください」と書き添えて。
本はどんどん減っていきました。
そして読んでくれた若い看護師さんが次々と感想を伝えてくれました。
それはそれで大きな喜びでした。
私はこのまま消えていったとしても彼女たちの記憶の中に物語は残るだろう。
だから完全に消え去るわけじゃない。これで十分なんじゃないだろうか。この先、生きたとしても小説を書く気になんかなれないし、きっとろくなものは残せない。ならば、このまま死んでいくのも悪くないかな。
気分はすっかり諦めモードでした。
ただ困ったのは藤井さんの王位戦でした。
幻ともいえる八冠に向かって敢然と挑んでいる藤井さん。
その結果を見届けられないものかと思ったりしました。
藤井さんにはじめてお会いしたのは数年前の瀬戸市のご実家でのこと。
いきなり現れた私にどう接したらいいかもわからず、高校一年生になったばかりの藤井さんは明らかに戸惑った様子。かわって利発で明るいお母さんと、どこまでも優しいおばあちゃんが私の前に並んで座ってあれこれお話をしてくださいました。
藤井家の広い隅々まで美しく整理された和室。ひっそりと置かれた榧の6寸盤。
藤井さんは共に訪れた編集者と将棋の話で盛り上がっています。
「私がこの子が将棋が好きだと聞いて美容院で将棋教室の場所を聞いてきたのですよ」とお祖母ちゃん。「でも連れていったのは私です」とお母さん。
どちらが藤井将棋の第一発掘者かを競い合って明るい笑い声に溢れています。
「私、数年前にウラジオストックからシベリア鉄道に乗って、モスクワからドイツ、フランス、スペイン、ポルトガルと全部電車で行ってきたんですよ」と、鉄道好きと噂される藤井さんに声をかけました。藤井さんは目をきらきらさせて「そうですか。シベリア鉄道は1520ミリですよね?」とすかさず聞いてきました。鉄道の線路の幅のことです。大らかで優しい子だな、というのがまだ無冠だった藤井さんの第一印象。どこにでもいる素直な高校一年生という感じでした。
「地理が好きなんだって?」と私が聞くと「小学生の頃は日本の高い山を上から順番に100言えました。今は全然ですけど」とはにかみながらちょっとご自慢も。聞き流してし
まいましたが100言えるって考えてみたらすごいことです。
羽生さんが七冠を取った頃。殺到する取材依頼をまるで海を切り裂くように退け、『将棋世界』に貴重な一日を空けてくださいました。もちろん将棋ファンを思いやって専門誌を最優先してくれたのです。私は役割上インタビューを担当したのですが、そのときの羽生さんの放つオーラはすさまじいもので暑くもないのに汗だくになってしまいました。私のどんな突飛な質問にも、羽生さんは瞬時に答えてくれます。
最後に私は「その若さで全タイトルを取って、これからは何を目指すのですか?」と聞きました。すると羽生さんは初めて小考し声を裏返して、「本質です。将棋の勝ち負けよりも将棋の本質を解明することに向かおうと思います」と答えられたのでした。
あれから30年くらい経ったのでしょうか。
将棋の本質を目指す。
その言葉は私の頭を駆け回り続けましたがどうしても正確な意味が分かりません。
具体的にどういうことなんだろう。
藤井家の取材のあとに、藤井さんが子供の頃に通った瀬戸市の文本教室に向かいました。
お祖母ちゃんが見つけてお母さんが、まだ幼稚園の聡太君を連れていった教室。
藤井さんへ徹底して教え込んだこと。それはただひたすらその頃出版されていた羽生さんの書いた定跡書を読み込ませることだと文本先生は教えてくれました。一行一行を切り刻むように読み体に染み込ませる。脳にコピーさせる。頭で理解するだけではなく肉となり骨となるまで。それは徹底していたと言います。あとは楽しく将棋を指してみんなでプロレスをして解散。
そのときはじめて私は気づかされました。
将棋を解明することを目指す。
羽生さんの言葉はこういうことだったのかと。
七冠を取って以来、いやその前から羽生さんは超多忙の合間を縫って定跡書を書き続けました。『将棋世界』にも最新系の定跡の研究をあますところなく丁寧に書き綴って、それは驚くほどの緻密さでした。どんなに忙しくても自筆でこつこつと、タイトル戦の帰り際に編集部に届けてくれることもありました。
そのことの意味がやっと少し理解できたような気がしました。
将棋の本質を解明する。
まだAIもそんなに進化していない時代、ネット将棋も草創期。
羽生さんは自分の世代ではそれは無理だと判断したのではないでしょうか。
そして現在自分が知りえている将棋の本質、つまり定跡について出来うる限り丁寧に正確に書き連ねておく。そうすることでそれを読み反応を示し、やがて頭角を現してくるであろう次の世代に託したのではないか。
おそらく日本全国の将棋指導者が羽生さんの考えに反応し、文本教室と同じような現象が起こり、多くの子供達が幼少の頃から羽生さんの言葉や考え方を体に染みつけていった。そんな大勢の子供達の代表選手こそが藤井聡太さんということなのではないでしょうか。
私も近くで仕事をさせていただいて羽生さんの未来を見る目の鋭さと確かさにはいつも驚かされてきました。
もし今も将棋雑誌編集者だったら同じ質問を藤井さんにしてみたいと思います。
八冠を取った今、これから何を目指すのですか。
藤井さんのことだからニコニコしながら「永世八冠です」と笑わせてくれるのかもしれません。
ただその答えはきっと藤井さんの胸の中に既にあるような気がします。
それは羽生さんの方法とはもちろん違ってくるでしょう。
今はAIという強い味方を得ています。
将棋の解明、それが達成されるとはどういうことなのか。何が起こるのか。将棋はどうなってしまうのか。
杉本師匠は名古屋でお会いした際に、「大崎さん、神様は藤井のために八冠を作ってくれました」と涙ぐんでいました。まだ一冠も持っていない頃のことです。杉本師匠や文本さん、お父さん、お母さん、お祖母ちゃんや多くの棋士仲間、藤井さんに関わったすべての皆さんに心からおめでとうございますと言わせていただきます。
もしあの国にいつか平和が戻って渡航が可能になったら、藤井さんも是非シベリア鉄道に乗ってきてください。モスクワまで1週間。詰将棋はたくさん作れます。それは保証します。他に何もやることもありませんが。
MASTERY for SERVICE
自分が人生をかけて将棋に打ち込むことに何の意味があるのだろう。
それは多くの棋士が一度は抱く永遠の疑問でもあります。
でもここに答えがあるように思います。
棋士は人々のために必死に技術を磨くのです。
病院では実際に患者たちはあなたの棋譜を楽しみ、どんなに苦しく追い詰められた状況でもニュースは常に明るい話題になりました。
藤井さんが積み重ねてきた研鑽と努力。
それは見事な技術となって私たちに奉仕してくれています。
それは6か月に及んだ入院生活の中で実際にこの目で見て体験してきたことです。
私も多くの希望や誇り、生きる喜びのようなものを与えられました。
お蔭様でこうして生きております。1年は何とか生き延びました。
次は2年目を目指すだけです。
どうもありがとうございます。
そして藤井聡太さん、この度の王位防衛、おめでとうございます。
2023年11月7日
大崎善生
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