一番という名前は、なんでも一番になれるようにという父の願いでつけられた【君嶋彼方『一番の恋人』試し読み(1/6)】
プロポーズの返事は衝撃的なものだった。
「好きだけど、愛したことは一度もない」
二年付き合った恋人は、恋愛感情も性的欲求も抱かない人だったのだ――。
『君の顔では泣けない』で鮮烈なデビューを飾った君嶋彼方さんの長編三作目の試し読みを大ボリュームでお楽しみください。
あらすじ
『一番の恋人』試し読み
1
最近、家のドアの鍵の調子が悪い。
外はうだるような暑さだ。夜だというのにじりじりとした熱気に加え、噎せ返るような湿度で、駅から家までの徒歩十二分の間に体力はすっかり奪われていた。
大学卒業と同時に今のマンションに越してきて、もう六年になる。駅から少々遠いのと年季が入っているのが難点だが、家賃が安く広さもそれなりにあるので気に入っている。
マンションに着き、エレベーターに乗り込み、四階へ向かう。その角の四〇五号室。そこが僕の住む部屋だ。
鍵を取り出し、鍵穴に差し込む。回そうとして、しかし金属の軋むあまり耳心地のよくない音がするだけで、ちっとも回ってくれない。数週間前から急に、鍵穴の滑りが悪くなってしまった。今日も不機嫌な声をあげている。しばらくがちゃがちゃと苦闘していると、家の中からドアを叩く音がした。鍵穴から鍵を抜くと、がちゃ、と簡潔な音がしてドアが開いた。
「おかえり、番ちゃん」
千凪が顔を出す。彼女の姿を目に入れた瞬間、自然と頰が緩む。
「ただいま。暑かったー」
「ね、暑かったね。部屋冷やしておいたよ」
その言葉の通り、家に入った途端ひやりとした空気が体を包む。千凪は肌寒かったのか、部屋着のパーカーを羽織っていた。それでも冷房の温度を下げてくれていたようだ。
パーカーの下は、グレーで無地の半袖ワンピースを着ていた。耳元には花の形をしたイヤリングが光っている。控えめな色のアイシャドウやリップも、編み込んでアップにした長い髪も、全部僕の為に整えてきてくれたんだなと思うと嬉しかった。愛しさが込み上げてくる。
僕は玄関で靴を脱ぐと、そのまま千凪を抱き締めた。びく、と腕の中で千凪が小さく震える。
「ただいま」
僕はもう一度言い、千凪に軽くキスをした。柔らかい感触が唇に触れる。家を出るときと、帰ってきたとき。そのタイミングでキスをすることは、いつの間にか僕たちの中の不文律になっていた。
いつもはすぐに体から離れるのだが、まだ千凪の感触を抱いていたくて、そのままの状態で千凪をじっと見つめた。千凪が笑う。
「ちょっとやだー、離してよ」
「えーなんだよ、ひどいなあ」
「汗臭いんだもん! 早く着替えてきてよー」
千凪がふざけたように腕の中でもがく。仕方ないなあ、と僕は千凪を離してやる。
「はい、これケーキ。買ってきたから後で食べよう」
「わ、ありがとう! 楽しみー」
僕からケーキを受け取ると、千凪がそれを冷蔵庫にしまいに行く。僕は自室へ入ると、スーツを脱ぎ、部屋着に着替えた。汗で湿ったシャツとインナーを洗濯機に放り込み、リビングへと向かう。
テーブルには既に夕飯の用意がされていた。今日はビーフシチューのようだ。輪切りにされたバゲットに、アボカドのサラダが置かれている。「おお、うまそう」と言いながら、食器を運んでいる千凪を手伝う。
食卓の準備が整うと、僕らはテーブルの周りに腰掛け、「いただきます」と手を合わせた。芳ばしい香りが空腹を誘発してくる。
「鍵、早く管理人さんに連絡してどうにかしてもらった方がいいよ」
千凪がサラダを取り分けながら、さっきの調子の悪い我が家の鍵を話題に出す。
「そうなんだよね。いつも連絡しようしようと思って忘れちゃうんだよ」
「私がいるときは開けてあげてるけど、いつもどうしてるの?」
「すっごい頑張って開けてる。トイレ行きたいときとかもう地獄」
木の皿に入れたサラダを千凪が渡してくる。ありがとう、と僕はそれを受け取る。
「コツがあるんだよ、ちょっと持ち上げるようにしながら開けるの」
「それ、やってるはずなんだけどなぁ。うまくいかないんだよね」
そんな他愛のない話をしながら食事は進む。
千凪と付き合って、もうすぐ二年が経とうとしている。互いに何も予定がなければ、週末はいつも二人で会うことにしている。金曜の夜に顔を合わせ、土日をデートしたり家でゆっくりしたりして過ごす。金曜の夜は外食のときもあるけれど、大体の場合はこうやって千凪が先に帰って食事の支度をしてくれている。家に帰ると誰かがいて、食事の準備がしてあって。調子の悪い鍵も代わりに開けてくれる。幸せだなあと思いながら僕は千凪との時間を過ごしている。
会わなかった一週間分の隙間を埋めるように、僕らはいろんな会話をする。
「駅前の潰れたコンビニのとこ、もうなんか新しいのできてきてるんだね」
「そうそう、そうなんだよ。俺的には弁当屋とかできてほしいなあって思ってるんだけど」
「確かに、この辺ってお弁当屋さんないかも」
「でしょ? あとさ、トラ太郎のとこ見てきた?」
「見た見た! なんか猫トイレとか餌入れとか、すごい環境整ってた」
「誰かがやってくれたんだろうね、あれ。トラ太郎は幸せな野良猫だよなあ」
こんなくだらないことを気兼ねなく話せる関係が嬉しい。付き合いの長さはそれなりになってきたけれど、僕らの仲の良さはずっと変わっていない。
食事を終えると、ちびちびと酒を飲みながら映画を観るのが近頃のルーティーンだ。僕はビール、彼女は赤ワイン。映画の趣味は二人ともばらばらで、交代でそれぞれが観たい作品を流すようにしている。
一本観終えたら千凪、僕の順で風呂に入る。体の熱が抜けた頃、一緒に寝床へ向かう。元々一人用で買ったセミダブルのベッドは二人で寝るには狭かったが、千凪の体温をずっと感じられるのは好きだった。
変わらないのは関係性だけじゃない。夜の営みの頻度も、週に一度は必ずしている。友人に話すと驚かれる。二年も付き合ってるのに、よく飽きないよな。
飽きるなんてとんでもない。僕は千凪のことが好きで、同じくらい千凪の体も好きだ。胸も尻も豊満な、肉付きの良い体軀。腰辺りにむっちりと肉がついているのも、本人は嫌がっているが僕は好きだ。小さめの乳輪も、綺麗な形の臍も、薄めの体毛も、全部好きだ。
二年間の付き合いで、僕らは何度もセックスをした。その回数が平均的なのかどうかは分からないが、それでも数えきれないくらいしている。それなのに千凪はそのときになると、未だに恥ずかしそうにする。あまり見ないでと濡れた瞳で言われると、逆に僕は興奮してしまう。肌に触れると、ぴくりと体を震わせて捩る。まるで快感に耐えているかのように、ぎゅっと目をつぶり唇を嚙み、僕の愛撫を受け入れる。その顔も声も反応も、何度目だっていつでも新鮮で、愛おしさは変わらない。
ずっと、こんな日々が続けばいいと思っていた。