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【大河ドラマを100倍楽しむ 王朝辞典】第十七回 敦康親王(藤原定子の子)

川村裕子先生による、大河ドラマを100倍楽しむための関連人物解説!

第十七回 敦康親王あつやすしんのう藤原定子ふじわらのていしの子)

敦康親王あつやすしんのうは悲劇の親王です。彼は一条天皇の后・藤原定子の子ども。生まれたのは九九九年(長保ちょうほう元年)でした。そのころは、定子の兄・伊周これちかたちが道長に追い落とされているような時期で、決して明るい時代ではなかったのですね。母の定子も一〇〇〇年(長保二年)に亡くなってしまいました。
 では、敦康親王は悲しいことばかりだったのでしょうか。いいえ、それも違います。確かに政治的に見て東宮とうぐう(次の天皇)にならなかったので勝者とは言えないでしょう。でも、だからといって、彼の人生が、いつもいつも暗い影に覆われていた、とも言えませんよね。
 だいたい人間の一生なんて、最初から最後まで暗かったり、もしくは全部明るかったりはしませんよね。
 それに東宮にはならなかったけど、道長の娘・彰子しょうしが一条天皇の子(敦成あつひら親王)を産むまでは、東宮がどうなるかわからなかったんです。そのうえ、敦康親王は、彰子が面倒みていたのだし……。
 少し話が込み入ってきましたね。それでは、敦康親王が、実は道長たちからとてもとても大切にされていたエピソードを見てみましょうか。

(…)穆子ぼくしさまを伴って、道長さまと倫子りんしさまが石山寺に参籠なさっている時、中宮さま(彰子)からも帝(一条天皇)からも、毎日のように手紙が届きます(略)。

『御堂関白集』四十五

 これは、一〇〇五年(寛弘かんこう二年)十月二十五日に、敦康親王が石山寺に行ったときのこと。彰子をご紹介したときにちらっとお話しいたしました(第十回)。今回は敦康親王中心にお話ししていきましょうね。
 まず敦康親王は内裏から土御門邸つちみかどていに退出しました(『御堂関白記』)。グランドマザー倫子りんしが同車しています。また、その時について行った人たちは道綱をはじめとする七人の貴族たち。道長は道綱と同車しています。これは兄弟だからですね。そして、彼らはようやく、夜になってから石山の堂に上ることができました。
 ところで、この道長や敦康のいる所(石山寺)には毎日のように一条天皇から手紙が届きます。一〇〇五年の十月二十六日、十月二十七日、二十九日、十一月一日……(『御堂関白記』)。
 さきほどあげた『御堂関白集』(四十五)にも「毎日のように手紙が届きます」とありましたね。
 それにしてもすごい。石山寺は都から近い、などというご意見もありますが、『和泉式部日記』のなかでメッセンジャーだった小舎人童こどねりわらわは「苦しくとも行け」という敦道親王からのあつを受けています。
 やはり都から石山寺までは難行苦行だったのですね。一条天皇たちはそこに、なんと毎日のように勅使ちょくしを送りました。もしかすると一条天皇は何かを心配していたのでしょうか。定子の妹が毒殺らしいのを考えると何か心配事があったのかもしれませんね。
 それはともかく敦康親王は道長にとっても東宮候補だし、大切にしたいのですね。なんだか道長(倫子)、彰子、一条天皇がみんなで敦康親王を取り合っている風情です。
 よく本などでは、敦康対道長の闘い、などと書かれることもありますが、敦康は道長にとって大切な宝物。
 それでは、この石山詣でのちょうど前年にあたる記事を見ましょうね。

東三条邸に行って造作を見るのだ。敦康親王さまは内裏にお入りになる。藤壺の東面をいつもの場所とするのだ。御供に私も入る。倫子さまもいらっしゃる。

『御堂関白記』一〇〇四年正月十七日

 東三条邸は兼家さま(道長の父)のお邸でした。敦康親王は内裏の藤壺に入るのですね。藤壺は飛香舎ひぎょうしゃのこと。そして彰子のお部屋。道長だけでなく倫子ママも来ました。一族総出で敦康親王と彰子を支えてますね。仲良し。大切にされている敦康さま。
 でも、敦成が東宮になってからはパッとしませんでした。そして一〇一八年(寛仁かんにん二年)の十二月十七日に亡くなってしまいました。年は二十。そう、悲劇の親王ですね。
 それでは、最後に敦康親王関係で珍しい資料をあげておきましょう。それは「敦康親王初覲関係文書あつやすしんのうしょきんかんけいもんじょ」というものです。
 まずこれは行成直筆であることを指摘しておきたいです。当時は一〇〇〇年以上前ですので、なかなか直筆はなく、だいたいの資料が「伝行成」となっています。これは「行成が書いたと伝えられた」という意味です。
 ところがこの資料はどうでしょう。本当に行成が書いたものなのですね。それで、内容は、というと、ちょうどさきほどの石山詣での年の記事になりますでしょうか。一〇〇五年(寛弘二年)二月十日、敦康親王(七歳)が一条天皇に対面する儀式に関するものだといわれています。行成の敦康関係メモですね。
 これは大変貴重な資料ですが、サイトで見られるようになっています。ありがたいことですね。

https://shozokan.nich.go.jp/collection/object/SZK000352
(皇居三の丸尚蔵館 敦康親王初覲関係文書あつやすしんのうしょきんかんけいもんじょ

プロフィール

川村裕子(かわむら・ゆうこ)
1956年東京都生まれ。新潟産業大学名誉教授。活水女子大学、新潟産業大学、武蔵野大学を経て現職。立教大学大学院文学研究科日本文学専攻博士課程後期課程修了。博士(文学)。著書に『装いの王朝文化』(角川選書)、『平安女子の楽しい!生活』『平安男子の元気な!生活』(ともに岩波ジュニア新書)、編著書に『ビギナーズ・クラシックス日本の古典 更級日記』(角川ソフィア文庫)など多数。

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