結婚するつもりでいた彼女は、僕を愛していなかった【君嶋彼方『一番の恋人』試し読み(6/6)】
『一番の恋人』試し読み(6/6)
本当は夕飯を食べたらさっさと帰るつもりだったのだが、結局午後九時過ぎまで滞在することになってしまった。千凪に申し訳ないと思いつつ、家を後にする。母は頻りに「また遊びに来てね」と千凪に笑いかけていた。
駅へと道を辿りながら、「今日は本当にお疲れ様」と千凪に声をかける。
「ううん。番ちゃんこそ、お疲れ様」
「うちの家族、大丈夫だった? ちょっと変わった家族だからさ」
「全然! 話しやすいし優しいし、いいご家族じゃない」
「そう? ならよかった」
家族の話をしているうち、駅に着く。改札を通りホームへと向かう。電光掲示板を見ると、次の電車の到着は二分後。僕らはホームの端に立ち、電車を待つ。立ち並んだ広告の看板の奥に、街の明かりが燦然と輝いている。今日は比較的涼しい。時折吹いてくる風が気持ちよかった。
「でもね」千凪がぽつりと言った。「お父さんにはちょっとびっくりしたかも」
それだけで、千凪の言葉が何のことを指しているのかすぐに察した。結婚を前提に付き合っているのかと、そう問われたときのことを言っているのだろう。
「あー、そうだよね。俺もびっくりした。ほんとごめん」
「ううん、驚いただけ」
ふと笑顔が消えて、ブラウスの襟元を指でいじり出す。視線は薄くピンクに塗られた爪に落ちている。
「その後の、番ちゃんの答えにも驚いたけど」
「あ、あー。あれ、あれね。うん、そりゃそうだよな」
当然、驚いたに違いない。僕らの間に、結婚という言葉は今まで一度も出てきたことはなかった。千凪にとっては寝耳に水だっただろう。
でももし、一生を添い遂げる相手がいるとしたら。それは絶対千凪以外はありえない。結婚をして、子供を作って、家庭を築く。そんな光景の中で、隣で笑っていてくれるのは、千凪でなければ嫌だ。
「ち、千凪」
自分のものとは思えない声が出た。緊張していた。口を開くと、喉の奥から自分の心臓の音が漏れ出してしまいそうだった。まもなく電車が参ります、というホームのアナウンスが、やたらと遠くから聞こえてくる。
「あんな形になっちゃったけど。ちゃんと、じ、事実だから。ちゃんと俺は本当に、思ってるから」
どうしても何故か言い訳がましくなってしまう。千凪も呆れてしまったのか、困ったような笑みを浮かべている。駄目だ、きちんと伝えなければと自らを奮い立たせ、大きく息を吸う。
「だから、千凪。よかったら俺と、結婚してください」
千凪が笑みを崩さぬまま、両目をゆらりと泳がせた。襟をいじっていた指先はそのままぎゅっと服を握っている。思ってもみなかった反応に、僕は戸惑う。もっと、喜んでくれると思ったのに。
流れる沈黙に僕は冷や汗をかく。ようやく千凪が口を開いて、呟くように何かを言った。しかしそれは、ちょうどやってきた電車の音にかき消されてしまう。
「えっ? ご、ごめん。聞こえなかった」
僕の言葉に、千凪がようやく視線をこちらに向けてくれた。そこにはいつも通りの千凪の笑顔が広がっていた。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
それだけ言うと、髪をふわりと翻して、口を開いた電車に乗り込んでいく。僕はその後ろ姿を呆然と見つめていたが、発車のベルが鳴り、慌てて電車に乗る。既にシートの端に腰掛けていた千凪の隣に座り、彼女の横顔を覗き込む。
「ほ、ほんとに? ほんとにいいの?」
つい声が上ずってしまった。千凪が苦笑しながら、人差し指を立てて唇に当てる。僕は慌てて自分の口を押さえる。
「うん。もちろん」
千凪が小さく答える。胸の奥から、じわっと熱いものが広がってくる。鼻の奥がつんとなって、視界が淡く滲んだ。
「ありがとう。本当に、ありがとう」
嬉しかった。こんなに嬉しいのは、千凪に告白を受け入れてもらえて以来かもしれない。頰が緩んで口角がだらしなくなるのを手のひらで隠す。ここが電車でなければ、今すぐに抱き締めて、好きだと叫びたい気持ちだった。このときの僕は、自分でもはっきり分かるくらい、浮かれて舞い上がっていた。
だから、千凪の笑みを浮かべた横顔に、翳りがあることにちっとも気付くことができなかった。
雀躍した気分のまま、僕の家に着く。今日は土曜日。我が家に泊まり、日曜はゆっくり家で過ごす予定だ。
垂れそうになる髪を左手で押さえながらパンプスを脱ぐ千凪に、僕は思わずむらっとする。家に上がった千凪を、僕はそのままぎゅっと抱き締めた。腕の中で千凪が体を強張らせたのが分かった。
「ちょ、ちょっと」胸の辺りからくぐもった声が聞こえてくる。「番ちゃん、手、洗わなきゃ」
「いいじゃん、今日くらい。ね」
「だ、駄目だよ。汗だってかいてるし、せめて、シャワー浴びよう?」
「大丈夫、気にしないから」
「番ちゃんが気にしなくても、私が気にするんだってば」
「ねえ、千凪。千凪」
僕は千凪の名を呼びながら、更に強く抱き締める。僕の胸を押し返すようにしていた千凪の手が、少し緩んだ。
「本当に今日は嬉しかった。ありがとう。急なプロポーズになっちゃって、ごめんね。ちゃんと指輪も買う。そのときにもう一回ちゃんと言うよ。でも、本当に、すごく嬉しい。ありがとう。千凪、本当に、ありがとう」
腕の中で、千凪の力が抜けていくのが分かる。だらんと垂れ下がった腕が、ゆっくりと僕の背に向かう。
「私も、嬉しい。ありがとう」
恐る恐る、といった具合で、千凪の手に力が籠る。幸福だ。これが幸福なのだと、僕は嚙み締めていた。
幸福というのは、爆発みたいなものだと思っていた。胸中から多幸感が溢れ出て、弾けて、暴れて踊り出したいようなものなのだと。
でも実際は違っていた。寒空の下で風呂に浸かったときのように、それは爪先からゆっくりと這い上がってきて、両腕で抱き締めてやらないと、どこかへ消えてなくなってしまいそうな儚さがあった。
絶対離さない、と思った。離してやるもんか、と。これは僕がようやく手に入れた、僕だけの幸福なのだ。
僕は腕をほどき、千凪の手を握り、寝室へと向かう。千凪はもう抵抗をせず、そのままゆっくりとついてくる。
千凪をベッドに腰掛けさせ、その横に僕も座る。千凪の丸い両肩に手を置いて、そのままゆっくりと唇を近付けた。柔らかな感触。そのまま舌を差し込むと、固く閉じていた口が開く。
長い時間キスをして、僕は千凪をベッドにそっと押し倒す。不安げな表情の千凪と目が合った。大丈夫だよと言う代わりに、もう一度キスをして、舌先で首筋をなぞる。ブラウスのボタンを外すと、薄いピンクのブラジャーが露わになる。そのまま鎖骨、胸元に舌を下ろしていく。
頭の上から、千凪の押し殺すような声が漏れてくる。いつもは声を上げたりしない千凪が、感じている。僕は興奮して首筋を甘嚙みする。ブラを脱がそうと、千凪の背に手を回し、彼女の顔を見る。僕はぎょっとした。
千凪は泣いていた。声を殺し、しゃくりあげ、両目から涙をぽろぽろと流していた。僕は慌てて千凪の体から飛びのく。
「どうしたの。何で泣いてるの」
尋ねるが、千凪はただ首を振るだけだ。指で目尻を拭ってはいるが、涙は耳の先から垂れシーツを濡らしてしまっている。
「ご、ごめん。俺のせいか。お風呂入らないで、しようとしたから……ごめん、本当ごめん。お風呂、お風呂入ろう」
「ち、違う。違うの」
千凪がしゃくりあげながら、たどたどしく答える。半身を上げ、僕の背中側にあるサイドテーブルに手を伸ばした。ティッシュを取りたいのだと気付き、箱ごとそれを渡す。数枚取ると、目元をぎゅっと押さえた。僕は何もできぬまま、見守ることしかできなかった。
やがてようやく涙が治まったのか、俯いていた千凪が顔を上げた。目に当てていたティッシュを取り、洟をかむ。「大丈夫?」と訊くと、こくこくと二度頷く。
「ごめん、千凪。千凪が、そんなに嫌がってるなんて、思いもしなくて……」
「違う、違うの。私こそ、ごめんね」
丸めたティッシュをベッドの上に置く。乾いた涙の跡を拭うように、頰を何度もこすっている。
「なんか、感極まっちゃって、つい。本当にそれだけだから、大丈夫」
その響きはどこか言い訳めいていて、僕は不安が隠せなかった。感極まったとか、僕との行為が嫌だったとか、そんなことではなくて、もっと何か別の大きな理由で、涙を流したとしか思えなかった。
それでも千凪はどうにかいつもの笑みを浮かべていて、僕はそれ以上何も言えなかった。深く尋ねたら奥底で眠っている何かが、僕に咬みついてきそうで怖かった。
結局その日は何もせず、風呂も入らず着替えもせぬまま、僕らは寝た。千凪はすぐに寝息を立て始め、僕はその寝顔を暗闇の中じっと見つめていた。布団の中で手を握ると、氷のように冷えた千凪の指の感触が、僕の手のひらを刺した。
翌朝、日曜日。微かに聞こえる水音に目を覚ます。スマホを見ると、まもなく正午になろうとしていた。ずいぶんと寝てしまったようだ。軋んで痛む腰をかばいながら、ベッドを抜け出す。
洗面台では、千凪が顔を洗っていた。覗き込んでいる僕の姿に気付くと、水滴をタオルで拭きながらこちらを向いた。
「番ちゃん。おはよ」
「ん。おはよう」
「さすがに日曜とはいえ寝過ぎちゃったね」
そう言いながら化粧水を顔につける千凪の様子は、いつもと何ら変わりがない。僕はほっと胸を撫で下ろし、遅い朝の支度を始める。
洗顔や歯磨きを終えると、朝食兼昼食の準備をする。千凪がベーコンや卵を焼いている間に、僕はパンをオーブンレンジに放り込む。それが焼き上がりバターを塗る間に、千凪がベーコンを皿に盛りつける。千凪がフライパンを洗っている間に、僕が箸や醬油をテーブルへと運んでいく。いつもと変わらない、何一つ変わらない休日の朝の風景だ。
食事の準備が整うと、僕と千凪はそれぞれの位置に座る。テレビを点ける。昼過ぎのニュースをやっていた。軽い感じのテンションで、一週間を振り返っている。賑やかな出演者たちの様子を流し見しながら、僕らは食事を始める。
「今日さ、スーパーだけ行きたいんだけどいい?」
僕が尋ねると、黄身を割らないよう慎重に卵を箸でつついていた千凪が答える。
「いいよ。冷凍しておいた野菜とか、もうほとんどないしね」
「そうそう、そうなんだよ。あと柔軟剤がなくなりそうだから、買いたいんだよね」
「分かった。じゃあ、掃除してから行こうか」
「そうだね、ありがとう。あとさあ、出かけるときに風呂場の防カビの煙やってけって言ってくれない?」
「番ちゃん、ずっとそれ忘れてるもんね。もう三ヶ月くらい前から言ってる」
「そうなんだよ。出かけるときにやろうって思ってるんだけど、いっつも忘れちゃうんだよね」
「そういうときはね、玄関先に防カビのやつ置いておけばいいよ。そうすれば否が応でも思い出すもん。私もしょっちゅう忘れてたから、それやるようにしたの。でもさ、結局忘れるときは忘れちゃうんだよね。郵便物をさ、ポストに入れてかなきゃいけなくて、玄関先に置いといて、出るときにバッグに入れるの。でもそれを投函し忘れて、うわぁやっちゃったってなるわけ。夜は絶対に投函して帰ろう、忘れないようにしよう、って思うんだけど、それも、結局……」
今まで饒舌に話していた千凪が、急に言葉を止めた。怪訝に思った僕は皿から視線を上げる。口元に浮かべていた笑みが、ゆっくりと消えていく。口角は下がり、瞳が昏くなり、表情が失われていく。その妙な様子に、僕は問いかけようとする。どうしたの、千凪。けれどその言葉は千凪によって遮られた。
「あのね、番ちゃん」
いつの間にか箸を握っていた手は膝の上に置かれ、視線は僕に向けられている。
「番ちゃんに謝らないといけないことがあるの」
張り詰めたその瞳に言葉が詰まる。一体、千凪は何を言おうとしているんだ。テレビでは、司会者が何が楽しいのか馬鹿笑いをしている。
「私、やっぱり番ちゃんと結婚できない」
後頭部を、思い切り殴られたような衝撃だった。なんで、なぜ、どうして。だって昨日は求婚を受け入れてくれたじゃないか。嬉しいって、確かに言ってくれたじゃないか。そう問い詰めたくても、出てきたのは「どうして」という掠れた声だけだった。
「ごめん、本当にごめん。番ちゃんが、もし、結婚をして、家庭を作りたいって言うんなら。その相手は、私じゃない方がいいと思う」
千凪の言っていることがさっぱり分からない。その言い方だと、まるで。千凪は、僕のことを。
テレビの音がさっきからうるさい。千凪が視線をテーブルに垂らして、ぎゅっと唇を嚙んだ。そしてまた、僕の方を見つめる。
「私、番ちゃんのこと、好きだよ。でも、愛してない。愛してると思ったことは、今までで一度もない」
こんなにも、あっけなく消えてしまうものなのか。まるで世界から断絶されたような気分だった。握り締めていたはずなのに、僕の幸福は、指の隙間から砂粒のように零れ落ちていった。
(気になる続きは、ぜひ本書でお楽しみください)
『一番の恋人』試し読み記事まとめ
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