『ドクター・デスの再臨』刊行記念! 中山七里『ドクター・デスの遺産 刑事犬養隼人』試し読み
“どんでん返しの帝王”中山七里による警察医療ミステリ「刑事犬養隼人」シリーズ最新作、『ドクター・デスの再臨』が絶賛発売中!
刊行を記念して、警視庁の敏腕コンビと闇の医師「ドクター・デス」との、極限の頭脳戦が繰り広げられる『ドクター・デスの遺産 刑事犬養隼人』の冒頭を特別に公開します!
『ドクター・デスの遺産 刑事犬養隼人』試し読み
一 望まれた死
1
『ねえ、聞いてよ。悪いお医者さんが来て、お父さんを殺しちゃったんだよ』
通報を受けた倉科恵子は聞き覚えのある声に、ああまたかと思った。少し舌足らずで拗ねたような口調。声から察するに小学生低学年の男の子だろう。
「またあなたね。昨日も同じ電話をしてきた子でしょう」
恵子の所属する通信指令センターは警視庁本部内に設置されている。ここで通報者から状況を聴取して現場周辺を巡回中のパトカーへ指示を飛ばすのが恵子の役目だ。
警視庁本部への通報件数は全国一だろう。最近は携帯電話の普及に伴って右肩上がりになってきた。いきおいイタズラ電話も増加しており、受理台に座る恵子にはそういう電話の迅速な処理も求められている。
「名前、ちゃんと憶えているわよ。マゴメダイチくんだっけ。あのね、110番へのイタズラ電話は偽計業務妨害罪といって立派な犯罪なのよ。もう、こんなことはやめなさい。ダイチくんは警察に逮捕されたくないでしょ」
わざと厳めしく言ったのはもちろん戒めのためだが、ダイチの反応は予想外のものだった。
『ボクを逮捕する前に、あの悪いお医者さんを逮捕してよ。お父さんは病気と闘っていたのに、お母さんは一生懸命看病していたのに、それをあの医者が、あの悪い医者が……』
声に真剣さはあるものの、それでも医師が患者を殺しに来たというのはいくら何でも妄想じみている。ふと頭を過ったのは医療過誤の可能性だった。
「ダイチくん、お父さんは入院していたの? そこで治療とか手術をして死んでしまったの?」
『違うよ。家だよ。ボクの家に来てお父さんを殺しちゃったんだよ』
往診に来て、そのまま患者が危篤状態になったということか。それなら分からない話でもない。
『警察は悪いヤツらを捕まえてくれるんでしょ。だったらあいつを捕まえてよ。本当にお父さんはあいつに殺されたんだ。お医者さんの恰好をしてるけど、あいつは死神なんだよ』
やれやれ、今度は死神ときたか。
イタズラ電話でなければ、これは子供の妄想に近いものなのだろう。自宅療養中の父親が往診時に危篤となり、子供の目には医者が死神に見えた。昨今の刺激的なマンガやアニメの影響もあるだろう。
ふとダイチに対して同情心が湧いた。高圧的に諭したのは自分の早計だったのかも知れない。
「ねえ、ダイチくん。お医者さんでも治せる病気と治せない病気があるの。ダイチくんのお父さんはきっと治せない病気だったんじゃないのかな」
話している最中、恵子は自分が電話相談をしているような錯覚に陥った。
『違うよ。本当に殺されたんだってば。何度言ったら信じてくれるんだよおっ』
拗ねた声が湿り気を帯びてきた。このまま電話を切るにも忍びない──そう考えた時、ふっと思い出した顔があった。
「分かった、ダイチくん。おウチの電話は今掛けている電話でいいのね。こちらから折り返し連絡するから、ちょっとだけ待っていてね」
ダイチとの通話を終えた恵子は刑事部捜査一課に内線を回す。一課には同期の高千穂明日香がいる。生活安全課を志望していたのに捜査一課に回されたという変わり種で、警察学校時代も婦警というより保育士のような雰囲気を持つ同僚だった。
「高千穂? 指令センターの倉科だけど、今いい?」
『いいけど』
「何だか機嫌悪そうね」
『今扱っている事件で技能指導員と組まされてるんだけど、この指導員がまたすごくクセのある人で……ああ、ごめん。愚痴をこぼすつもりはなかったんだ。で、何の用』
「二日連続でお父さんを殺されたって通報があるんだけどさ」
恵子はダイチから受けた通報の内容を説明する。
「おそらく往診した時には危篤に近い状態で、それを父親恋しさから、お父さんが殺されたと誤解したんだと思う」
『ありがちな話ね』
「高千穂、そのダイチくんと話してみてくれない」
『どうしてわたしが。捜査一課の仕事じゃないわよね』
「捜査一課の仕事じゃなくても、あなたの仕事っぽいでしょ。声の感じだと小学生低学年。お父さんを亡くしたばかりで情緒不安定になっている」
『だから、どうしてそれがわたしの仕事っぽいのよ。わたしの相手は傷害や殺人の強行犯で』
「情緒不安定な子供に何のケアもしないで放置しておくと、近い将来少年犯罪の芽になりかねないわよ。まさか自分の担当事件になるまで待つつもりなの」
『……それ、脅しなの』
「脅しじゃなくて、ここに災いの萌芽がありますよっていう通報。指令センターに詰めていると人脈が広がらなくてね。凶悪犯罪担当で且つ子供の扱いに慣れている警察官は、高千穂明日香くらいしか思いつかなかったのよ」
『つくづく顔が広くない女ね』
「小顔と言って」
『言っておくけど、わたしだって子供あしらいが上手い方じゃないのよ。入庁以来、むくつけき男の相手しかしてこなかったし。周りの同僚は血の臭いのするような男ばっかりだし、ちょっと外見よさげな相棒はとんだ朴念仁だし』
「愚痴が変な方向に飛んでるわよ。でもさ、放っておけば、確実に一人の少年の心が捻じ曲がること請け合いね。将来の凶悪犯罪の芽がこのまま成長するか、それとも摘み取られるかは一人の女性警察官の正義感にかかっている」
『……底意地の悪さは相変わらずね』
「人を見る目の良さも相変わらずよ。わたしに指名されたのを光栄と思ってくれなきゃ」
『その子の家の電話番号、教えて。ただの被害妄想だったら良し。万が一ということもあるし』
「正式な事情聴取? 高千穂一人でやるつもりなの」
『朴念仁を道連れにしてやるつもり』
*
「それで子供の訴えに耳を貸したという訳か」
目的の場所にクルマを走らせながら、犬養隼人の言葉は自然に尖っていた。子供から父親が殺されたという内容の通報があったと聞いて明日香と同行することを決めたが、まさかそんなやり取りだとは思ってもみなかった。
「どうして俺を道連れに選んだ。お前一人でも片付けられる案件だろう」
「どんな案件であっても捜査員の単独行動は避けるようにと通達が出ています。それに従ったまでです」
明日香はまるで取りつく島もない。言葉の端々から嫌悪感が滲み出ているが、そのくせ何かと犬養を巻き込もうとしているのだから真意が?めない。相棒の心一つ読めないというのも情けないが、元より女心を読むのは苦手中の苦手だったと自分を慰める。
警官になる前は俳優養成所に通い、その甲斐あって所作や表情から相手の?を見抜く能力は身についたが、これが女には全く通用しない。
「それに犯罪の臭いが皆無という訳じゃありません。市民からの通報を無視した結果、捜査が後手に回ったとしたらいったい誰が責任を持つんですか」
「今から建前を盾にすることを覚えたら、碌な刑事になれんぞ」
「へえ、実例があるみたいな言い方ですね」
「左遷させられた管理官がちょうどそういうタイプの人間だった。俺たちは建前で靴底を擦り減らしているんじゃない」
件の管理官を明日香も嫌っていたのか、それきり口を開こうとしなかった。自分への好感度はともかく、黙ってくれたのでとりあえずは有難い。
明日香が馬籠大地という少年から訊き出した住所は練馬区石神井町二丁目。石神井公園にも近く、閑静な住宅街の一画だった。この辺りは坂が多く、遠くから望むとまるで街全体がうねっているように見える。平日の午後、近くの小学校からは児童たちの声が聞こえ、とても殺人のキナ臭さは漂ってこない。
馬籠宅は長くなだらかな坂を登り切った場所にあった。犬養は路肩にクルマを駐め、明日香を従えて坂を上がる。自分で巻き込んでおいて、明日香は荒い息をしながら後からついてくる。
「遅いぞ」
「平地は、楽、なんですけど」
「通報してきた子供に文句を言うんだな。坂の上の家に住むヤツは面倒を起こすなって」
ひと足先にここと思える家に到着した。表札には〈馬籠〉とある。番地も合っているからこの家で間違いない。予想と違えたことが一つだけある。玄関ドアに〈忌中〉の貼り紙がしてあったことだ。追いついた明日香も貼り紙を見て神妙な顔つきをした。
「少なくとも父親が亡くなったというのは本当らしいな」
インターフォンを鳴らしてみるが反応はない。貼り紙の末尾には小さな文字で斎場の場所が記されてあった。おそらく遺体ともども家族も斎場に移動したのだろう。斎場は石神井台となっているので、ここから近い。ここまで来たのなら、毒を食らわば皿までだ。通報してきた大地少年から話を訊いておくべきだろう。
いったんクルマに戻って今度は次の目的地を目指す。斎場はすぐに見つかった。公営の斎場らしく、駐車スペースは二十台分ほどしかないが、クルマで来る参列者が少ないためか犬養の駐める余裕はある。
〈馬籠健一 葬儀式場〉
既に受付が始まっており、記帳場所には喪服姿の参列者が行列を作っている。女性参列者の中にはハンカチを目元に押し当てている者も散見される。
外にいても焼香の匂いが風に運ばれてくる。嗅ぎ慣れた殺害現場とは異なる死の匂いに、原初的な畏怖が刺激される。
「わたしたち、どう見ても異分子ですよね」
明日香は居心地悪そうについてくる。
「喪服着ていないの、わたしたちだけだし」
「招かれていることに違いはない。もっとも喪主にではないけどな」
辺りに充満する死の匂いを?き分けながら記帳台の最前列に割り込むと、受付の男性が早速眉を顰めた。
「申し訳ありませんが参列者の方は、故人とどのような間柄であろうと順番をお守りくださいませ」
「悪いけど故人とはこれから関わるところなんですよ」
犬養は懐から警察手帳を取り出した。
「大した話じゃないから大騒ぎしないで。故人のご子息だと思いますが、大地くんはいますか」
「控室に待機しています」
受付の男性は慌てて犬養たちを、その控室に案内してくれた。
「何か故人の死に疑惑でもあるのでしょうか」
「あなたは故人とどういう間柄なんですか」
「甥に当たる者で馬籠啓介といいます」
「疑惑に発展するかどうかも分からないことです。故人は長患いだったんですか」
「さあ、しばらくは僕も行き来がなかったので……」
「死因は何だったのですか」
「小枝子叔母さんからはがんだったとしか聞いていません。やっと今日が通夜ですからね。まだ遺族と落ち着いた話をしていないんですよ」
「自宅療養中に亡くなられたとか」
「そのようですね。何でも容態が急変したので、慌ててお医者さんを呼んだけれども手遅れだったとか。でも、それだって小枝子叔母さんがかなり狼狽えて連絡してきたものだから、やっぱり詳しい話は知らないんです」
やはり詳細は大地と小枝子から訊き出すしかなさそうだ。
親族控室には母子二人だけがいた。これが小枝子と大地だろう。小枝子は気の抜けたような顔をしており、それを大地が心配そうに見ている。
犬養は啓介を部屋の外に置き、明日香と二人で入る。
「どちら様でしょうか」
小枝子は力のない視線をゆっくりと上げる。
「立て込んでいるところを申し訳ありません。警視庁捜査一課の犬養と申します。こちらは高千穂」
はあ、と小枝子が訝しげに首を傾げる一方、大地の方は表情を一変させた。
「高千穂さん? ああ、やっぱり来てくれたんだ」
「大地。これはいったい、どういうことなの」
「大地くんが110番通報したんですよ。お父さんが悪い医者に殺されたんだって」
途端に小枝子は目を?いた。
「大地! 何てことをしたの。お父さんは病気で死んだのに、それがどうして殺されたなんて話になるのよっ」
母親の勘気に触れて、大地はびくりと肩を震わせる。
「お父さんは誰からも慕われて、誰からも憎まれなかった。そんな人が殺される訳ないじゃないの」
「でもお母さん、あの医者が来てから急にお父さんの具合が悪くなったじゃないか」
「もう、とっくに手遅れだったのよ。お医者さんのせいなんかじゃないのっ」
小枝子は大地の肩を鷲?みにして前後に揺さぶる。大地は泣き出す一歩手前だったが、それを犬養が止めた。
「馬籠さん、葬儀の席でこれを言うのは心苦しいのですが、どうか落ち着いてください」
小枝子と大地の間にやんわりと割って入り、二人を引き離す。そして大地の身体を明日香に委ねる。
「奥さんと話がしたい。大地くんを連れて別室に待機していてくれ」
もちろん大地を落ち着いた場所に誘導して別個に聴取するという意味だ。母親のいる前では、大地も自由に話すことができないだろう。
「あ、あ、あの子は父親の死に動揺してあんなことを言ったんです」
「おいくつですか」
「八歳です」
「ああ、父親に甘えたい盛りですね。夢想しがちな年齢ですからね。お母さんの言う通り、動揺して110番に通報してしまったというのも大いに頷けます」
「ウチの子がご迷惑をお掛けして……本当に申し訳ありませんでした」
小枝子は米つきバッタのように何度も頭を下げる。
「いえいえ、大地くんの勘違いならそれに越したことはありませんよ。ただ、通報があったからには報告書を作成しなければならないので、事情だけお聞かせいただけませんか」
「事情と言いますと……」
「ご主人が亡くなられた際の状況を詳しく教えてください。その調書を作成してこの件は無事終了です」
小枝子はこくこくと細かく頷いてから、しばらく考えを纏めるかのように口を噤む。再び話し出したのは三十秒も経ってからだった。
「主人の健一は自動車部品を扱う工場を経営していました。堅実な性格が幸いして大地が幼稚園に行く頃までは順風満帆だったんですけど、四年前から体調を悪くしたんです。最初はただの疲労だと思って無理を重ねていたら、ある日工場の中で倒れてしまって……診察してもらい、肺がんを患っていることが分かりました」
「肺がんは治りにくいがんの一つでしたね」
「ええ、五年生存率が数パーセントしかないとか。それでも主人は絶望することなく、懸命に闘病を始めました。仕事を部下の人に一任して、入院治療に専念したんです。でも、一年経ち、二年経っても病状は悪化するばかりで……三年目からは、本人の希望なら自宅療養に切り替えてもいいと言われました」
「回復しないのに、ですか」
「お恥ずかしい話ですが、その頃には工場も人手に渡し、預金を取り崩して入院治療費をどうにかこうにか捻出していたんです」
つまり入院費が工面できなくなったので、病院側から患者を引き取るように言われたのだ。
「がん保険にでも入っていたら少しはマシだったんでしょうけど、もう後の祭りですよね。それで細々と自宅療養を続けていたんですけど昨日のうちから、急に容態が悪くなって。慌ててお医者さまに来ていただいた時には、もう呼吸が止まっていたんです」
「医師の診断では、直接の死因は何だったんですか」
「心不全でした」
「肺がんの症状が悪化した訳じゃないんですか」
「入院していた時分から抗がん剤を投与していたんですけど、お医者さまの説明では、抗がん剤の副作用で心不全を起こすことがあるって」
言われて犬養は思い出す。以前扱った事件で専門医から説明を受けたことがあった。その医師によれば抗がん剤の中には心毒性を持ち、心臓の筋肉にダメージを与えるものがあるのだという。そして心臓の筋肉の脆弱化は狭心症や心不全を起こす要因となる。
「四年間の闘病生活ですっかり弱っていたんでしょうね。最期は力尽きるみたいに呆気なかったんです。がんに罹る前は本当に元気でしたから、大地もその頃の印象がなかなか拭えないのだと思います。臨終に立ち会っても、お父さんが死んだなんて?だと、何度も何度も遺体を揺さぶるんです」
その様子が目に浮かぶようでやりきれなかった。
「臨終に立ち会った医師が死亡診断書を作成してくれたんですね。拝見してもよろしいですか」
「埋葬許可をいただくために、もう区役所へ提出しました」
「それなら結構です。後ほど問い合わせてみますので」
闘病生活が長かったのなら、既往症の記録が残っている。死亡診断書に死因が心不全と記載されていれば、小枝子の説明の裏付けが取れる。それで今回の一件は落着するはずだ。
犬養は部屋を出て、斜向かいにある別の控室のドアノブに手を掛ける。犬養がノブを引くのと、反対側から明日香が押すのが同時だった。
母親からの聴取が終わった──そう告げる前に、明日香が緊迫した様子で話し掛けてきた。
「犬養さん、変です」
「何が変だ。母親の説明には何も不審な点が見当たらなかった」
「大地くんの話では、医者は二人きたというんです」
「二人?」
「馬籠さんの臨終を看取った医者が来るほんの一時間前、別の医師がやってきたって」
犬養の脳裏に閃光が走った。
小枝子はそんなことはひと言も口にしていない。
「母親の横にいてくれ。子供からの聴取を邪魔されたくない」
明日香と交替する形で、犬養は大地と対峙する。明日香の扱いが功を奏したのか、大地はいくぶん落ち着いていた。
「大地くん。今、お姉さんにした話をもう一度聞かせてくれないか。家にやって来たお医者さんが二人いたというのは本当かい」
本当だよ、と大地は事もなげに答える。
「最初のお医者さんはお昼前に来たんだよ。看護婦さんと一緒でさ。お父さんの具合を診て、注射をしてすぐに帰ったんだよ。それまではお父さん、ちゃんと喋っていたのに、急に静かになってさ。そうするとお母さんが慌てて別のお医者さんを呼んだんだよ。二人目のお医者さんは、お父さんの目に光を当てたり胸に聴診器を当てたりしていたけど、お父さんはゴリンジュウですって言うんだ」
「じゃあ、君の言う悪いお医者さんというのは」
「うん、最初に来たお医者さんのことだよ」
「どんな顔だったか憶えているかい」
「えっとね」
大地は視線を斜め上に向けて記憶をまさぐっているようだった。
「頭の天辺が禿げててさ、ちょっと怖い感じの人。背はあまり高くなかった」
「お母さんはそのお医者さんのことを何て呼んでいた。名前で呼んでいたのか」
「ううん。ただ先生って呼んでただけだよ」
「二人目のお医者さんとは完全に別人だったんだな」
「うん。二人目のお医者さんは背が高くて髪の毛もあったもの。間違える訳ないよ」
犬養は大地の目を直視する。女の?は見抜けなくても子供の?は見破れる。大地が虚偽を口にしているとは到底思えなかった。
これはどういうことだ。
小枝子と大地の証言がまるで相違している。昨日今日の話なので記憶が薄れるはずもない。
大地の証言を信じるのなら、自動的に小枝子が?を吐いていることになる。
何が一件落着なものか。疑惑で真っ黒ではないか。
謀殺の臭いを嗅ぎ当てて、犬養の五感が矢庭に鋭くなる。最初の医師が馬籠に注射した薬剤はいったい何だったのか。それが馬籠の命を奪った直接の原因ではなかったのか。
ぎりぎりで間に合った。今晩が通夜で明日が告別式なら、まだ死体は焼かれていない。
犬養は再び廊下に出て明日香を呼び寄せる。
「ひょっとしたらとんでもないカードを引き当てたかも知れないな」
「じゃあ、大地くんの言った通り」
「まだ断言はできんが、どちらにせよこのまま遺体を焼かせる訳にはいかん。急いで鑑定処分許可状を発行してもらってこい。それから鑑識を自宅へ呼べ」
犬養はクルマのキーを明日香の手に握らせる。
「犬養さんはどうするんですか」
葬儀の式次第はともかく、火葬するはずの遺体をいったん奪われる上に解剖されるのだ。喪主の小枝子以下参列者からは猛烈な反発が予想される。
「精々、現場が混乱しないよう保存に努める。とにかく急がせろ」
そうして明日香を本部へ送り出した後、犬養は何食わぬ顔で葬儀を観察していた。不審な人物はいないか、誰かが不自然な動きを見せていないか──だが焼香の煙が漂う中、葬儀はつつがなく進行していく。
葬式は参列者の数で故人の人脈が、そして参列者の態度で生前の信望が窺い知れる。馬籠健一という人物は交際範囲が狭かったが、小枝子の言うように他人から慕われていたのだろう。おざなりに手を合わせる参列者はただの一人も見掛けなかった。
動きがあったのは午後十時を過ぎた頃だった。いきなり斎場の外が賑わしくなったかと思うと、通夜の席に数人の捜査員が闖入してきた。その中には明日香の姿もある。
矢庭に小枝子をはじめとした参列者たちが騒ぎ出したが、斎場側には既に事情を説明している。数人が激昂したように立ち上がったが、これも犬養が抑えた。
「手続き上の問題です。ご遺体は一時お預かりしますが、葬儀はこのまま続けていただいて結構です」
だが捜査員たちが健一の亡骸を運び出す段になると、予想通り小枝子が猛烈に食ってかかった。
「あ、あなたたちは何の権利があって主人の遺体を」
棺に取り縋って離すまいとするのを、犬養が制止させる。
「権利というよりは義務ですね。たとえ病死といえども、疑わしい部分が一カ所でもあれば警察は捜査しなければなりません」
犬養は努めて平静に言ってのける。相手が感情的になっているのなら、どう思われようがこちらは事務的に対処するのが一番だ。
「馬籠さん。どうして往診にきた医者が二人だったことを言ってくれなかったんですか」
意表を突かれ、小枝子の表情が凍りついた。やはり大地の告発が真実だったとみえる。
「ご心配には及びません。埋葬の予定は少し遅れるかも知れませんが、ご遺体は責任を持ってご返却します」
だが小枝子の顔色は、心配の種が他にあることを如実に物語っていた。
犬養が一課に戻ると、麻生班長がてぐすね引いて帰りを待っていた。
「病死扱いの案件を無理やり掘り起こしてきたというのは本当か」
「無理やりというのは語弊がありますね。ちゃんと鑑定処分許可状を入手した上で遺体を搬送しましたよ」
「女房をはじめとした遺族から抗議の電話が掛かってきた。いったい、どういう算段で事件性を嗅ぎつけた」
まさか女の言い分よりも子供の言葉を真に受けたとは言えない。
「証言の齟齬ですよ。別の医者が来ていたのに、それを忘れていたなんて有り得ませんからね」
「しかし二人目の医師が作成した死亡診断書には死因は心不全と記載されていたんだろ」
「最初も本物の医者だとしたら誤魔化す方法があったかも知れません。少年の証言では被害者に薬剤を投与しているようですから」
「本当に事件性があるなら、女房が一枚?んでいることになるな」
「ええ。馬籠は零細工場を経営していたそうですから、カネに纏わる話もいくつか浮上するでしょうね」
「保険金殺人、か」
「保険金殺人も否定できません。司法解剖の結果を待って、保険会社にも探りを入れるつもりです」
「しかし、何も出なかったらどうする」
麻生は睨めつけるように犬養の反応を窺う。
「通夜の席から遺体をかっぱらった。法医学教室に無理を言って司法解剖した。その結果が大山鳴動してネズミゼロ匹になった場合、誰が責任を取る」
何もなければそれに越したことはない、というのは責任を取ったことのない人間の台詞だ。殊に組織の場合は予算と面子が行動規範を束縛する。
「二人の医者が来訪したのも、単に最初の医者は役に立たなかったから新しい医者を呼んだとも考えられる。もしそうだったら、どうする」
それは当然、犬養も考えた。だが、長年現場廻りで靴底を擦り減らした本能が行動に駆り立てたのだ。
「こんな首でよければ、いつでも差し出しますよ。まあ、その時には不本意ながら道連れがくっついてくるでしょうけどね」
途端に麻生は嫌そうな顔をした。
「今までお前が見込み違いだったことは一度もないが、多少は他人に降り掛かる迷惑も考慮しろ」
視界の隅で小さくなっている明日香を見つける。独断で捜査を決めたのは犬養だが、巻き込んだ張本人は明日香だ。小さくなっているのは、それを自覚しているからだろう。
だから尚更、麻生の叱責に頭を垂れる訳にはいかない。
「大丈夫ですよ。ちゃんと機能している組織なら、一人が暴走しても軌道修正しようとする力が働きますから」
「……皮肉のつもりか」
「とんでもない。第一、いち個人の暴走で面子を失うような組織なんて、所詮それだけのモンですよ」
麻生は睨み殺すような目でこちらを見る。
「今はお前の連勝記録が更新されることを祈るばかりだ」
どうにも居たたまれないので、外の空気を吸いたくなった。明日香の後ろに回り、行くぞ、とだけ声を掛けた。
「行くって、どこへですか」
「法医学教室だ。報告書が上がってくるまで、ここでじっと待っているつもりか」
居たたまれないのは同様らしく、明日香は返事もせずについてくる。
二人の向かった先は馬籠の遺体を搬送した東大本郷キャンパスにある法医学教室だった。深夜にも拘わらず、医2号館本館からは明かりが洩れている。レンガ造りの古色蒼然とした佇まいは、それだけで威圧されるような厳めしさを感じる。
棟に入っても威圧感はそのままだ。医学に携わる者にとって建物や設備が古いのは考えものだろうが、少なくとも部外者には権威づけとして有効になる。
ヒトの生死を扱い解剖室まで備えている場所なので、ここにも厳然と死の臭いが存在する。だが犯罪現場に漂うような暴力的なものではなく、管理された静謐な臭いだ。
「犬養さん。まさか解剖室に行くつもりですか」
抑揚を殺した声から明日香の緊張が伝わる。
「解剖の現場に来たのは初めてか」
「いつもは解剖結果報告書を読むだけだから……」
「一度くらいは解剖の有様を見ておいた方がいい。報告書に記載された内容が映像になって浮かぶようになる」
明日香はご免だという風に首を振る。
しばらく廊下を歩き、やっと目的の研究室に辿り着いた。ノックすると部屋の中から、どうぞと穏やかな声が返ってきた。
「やあ、犬養さん。遅くまでご苦労様」
出迎えてくれたのはこの研究室の主、蔵間准教授だった。理知的な目が印象的な四十二歳。捜査一課が度々検案を要請している関係で、すっかり顔馴染みになっている。
「頼まれていた案件、ついさっき終わりましたよ。ちょうど今、報告書を書いていたところです。ええと、そっちの人は……」
「去年から組んでいる高千穂です」
「ああ、よろしくお願いします。さてと、こんな時間に出向いてきたということは、一刻も早く結果を聞きに来たということかな」
「そうしていただければ有難いですね」
「先に作成されていたという死亡診断書はもう見ましたか」
「取り寄せている最中です」
「死因は心不全ということですが、犬養さんも知っての通り心不全というのは病名ではなく状態を指し示すものです。今回の場合、直接の死因となったのは虚血性心疾患と呼ばれるものです。つまり冠動脈の血流不足により、心筋が虚血に至って壊死してしまうのです」
「つまり心臓疾患であることに間違いないのですか」
「ええ。体表面に外傷はなく、臓器が破裂した形跡もありませんでした。梗塞部も明確で間質の浮腫、心筋の凝固壊死が顕著に見られます。死因が心臓疾患であることは疑いありません」
馬鹿な、と口をついて出そうになった。それでは小枝子の証言が正しかったことになる。
「ただし腑に落ちないこともあります。検体の血液を調べたところ、カリウム濃度が異常に高いのですよ」
「カリウム濃度?」
「カリウムというのは人体に必要なミネラルの一つですが、血中濃度が上がり過ぎると心筋に悪影響を及ぼします。検体のカリウム濃度は実に10・0mEq/l。通常の約三倍の数値でした。最初は高カリウム血症を疑いましたが、消化管の出血も細胞崩壊も見られない。念のために血漿採血も試みましたが、高カリウム血症の特徴は見出せませんでした」
おそらく喋っている本人は専門用語と思っていないのだろう。?んで含めるような説明は要求できないまでも、概略は何とか理解できる。
「つまり、異常に高いカリウム濃度は病気由来のものではない、という意味ですか」
「あくまでも可能性の問題ですよ。しかし人為的に血中濃度を高くされたというのであれば、納得のいく数値です。いや、というより、この症状に酷似した前例があるのですよ」
蔵間はのそりと身体を乗り出してきた。
「犬養さんは東海大学の安楽死事件というのを憶えていますか」
憶えている。平成三年、東海大学医学部付属病院で発生した事件だ。
「患者は多発性骨髄腫を患い昏睡状態が長く続いていました。家族は患者の苦しむ姿を見るに忍びなく、患者を楽にして欲しいと助手に懇願します。そこで鎮痛剤や抗精神病薬を通常よりも多く投与しましたが、症状は好転しません。再度家族から懇願された助手はベラパミル塩酸塩製剤を通常量の二倍投与し、それでも脈拍に変化がなかったので、塩化カリウム製剤20mlを注射し、遂に患者は急性高カリウム血症による心停止で死亡しました」
「蔵間先生。それじゃあ」
「事件発覚後に患者死亡時のデータが公開されましたが、この検体はそのケースと瓜二つなのですよ」
(気になる続きは、ぜひ本書でお楽しみください)
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