【試し読み】『モノノ怪 鬼』冒頭特別公開!
2024年7月26日(金)より大ヒット公開中の『劇場版モノノ怪 唐傘』。
全三章のプロジェクトであること、そして『劇場版モノノ怪 第二章 火鼠』が2025年3月14日(金)に公開予定であることが明かされ、さらなる話題を呼んでいます。
反響が広がる中、角川文庫の関連書籍3作品も続々重版出来!
感謝の気持ちを込めて、3日連続で各作品の冒頭試し読み記事を特別公開します。
本日お届けするのは、アニメ『モノノ怪』のスピンオフ小説第2弾『モノノ怪 鬼』。
謎多き“薬売り”の活躍を描いた物語の冒頭を、どうぞお楽しみください。
あらすじ
『モノノ怪 鬼』試し読み
第一話 牛鬼
一
谷を渡って涼やかな風が吹き上げてくる。
阿蘇に連なる優美な九重連山を南に望み、火山の王につき従う峰々の一角に、日出生城という小さな山城がある。
城と言っても見上げるような城郭があるわけでもなければ、立派な石垣があるわけでもない。普段その城に人はおらず、そして周辺の村々を統べる帆足一族の本城は、ここから数里離れた山の斜面に貼り付くように広がっている。
帆足家の支城である日出生の城には普段人こそ詰めていないが、中は美しく掃き清められている。山仕事に来る杣人や狩人は雨露や熊や狼を避けるため、城の建物を自由に使って良いことになっている。
帆足郷は玖珠郡の北東にあり、玖珠川に合流する二本の清流に挟まれた地だ。
大小の扇を広げたような二つの岩山と、日出生台という広大な草原も帆足のうちに入るが、そのほとんどは耕作に向かない荒れ地である。東は由布、北は豊前、西は角牟礼、そして古後摂津守の版図と境を接している。摂津守は玖珠郡に散在する国衆をまとめる盟主だ。
城の中心になる天守とも言えないほどの御殿の奥に、小さな妙見菩薩の祠と古井戸がある。妙見菩薩は星中の最尊、北極星の化身であり、日と月、憤怒と慈悲の両極の力を持つとされ、郡内では古城の水場に祀られることが多い。いつから祀られるようになったかは定かではない。
先年元服したばかりの少年、帆足鑑直は、父であり帆足一族の長、孝直の命を受けて城を検分している。城の構えの内をくまなく歩き、最後に小さいが城で一番高い位置にある祠に参ったあと井戸のほとりで体を休めていた。
ごおお、と井戸の奥から風か水が鳴くのが聞こえる。妙見さまの祠は玖珠郡の山中にいくつもあり、その多くは古い水場近くに祀られている。かつては年々祭りも行われていたがいつしかそれも廃れ、今はただ妖が出ると子供たちが噂するのみだ。
ただ、その噂は以前より影を濃くしている。山に慣れている者がたて続けに山で難に遭い、その死にざまの残酷さから妖異の仕業ではないかと恐れられている。鑑直はそこまで恐れてはいない。恐れ以上の楽しみが山にはある。
その時、一人の旅商人がゆっくりと参道を歩いてくるのが見えた。見たことのない異相の男だ。大きな行李を背負い、艶やかな衣の裾が山の緑に映えて輝いている。男は祠の前でわずかに頭を垂れ、しばらく口の中で何かを唱えていた。そこから漂ってくるのは薬草の匂い、どうやら薬売りのようだ。
祈りを終えた薬売りは社に顔を向けたまま、
「もし、そこの御仁」
不意にそう声をかけてきた。
「人に仇為す異形……鬼とでも申しましょうか」
「鬼? そんなものはここには……」
と言いかけて思い出した。
「牛鬼っていうのが出るそうだ。旅人に道を迷わせて取って食うんだってさ」
「ほう、牛鬼ですか……。見たことは、おありですか?」
「見つけたら退治してやるよ」
と力こぶを作って見せる。男はわずかに目を細めた。
「そうですか……」
振り向いた薬売りはゆっくりと山を見回すと参道を去っていった。
祠から見る山は深い森に覆われ、どこにいても肺の隅々まで染み渡るような、清らかな潤いの気配に満ちている。その中に華やいだ香りが混じっているのに気づいて、鑑直の胸はざわざわと甘く波立った。獲物を前にしても狼を見ても波打たないように鍛えてきたその心が、この香りを嗅ぐと滾りが抑えきれなくなる。
だが、その香りの主は簡単には姿を見せてくれない。言葉を交わすのにふさわしい相手なのかどうか、この山の主を受け継ぐ者として相応の力がなければ、山の女神に目通りを叶うことはないのだ。
「今日こそは捕まえてやるぞ!」
勢い込んで人気のない城に向かって叫ぶ。
「それ、もう聞き飽きたよ」
どこからか声がする。声は妙なる響きをもって四方にこだまし、また耳に入ってくる。
「何度だって言うからな」
「その執心だけはほめてあげる。おいで。暇だから付き合ってあげる」
鑑直はからかう声のする方をきっと睨みつけ、肩の力をそっと抜いた。呼吸を深く静かなものへと変えていく。呼吸を一つ深くするごとに、己の中に日出生城そのものを蔵するように観想していく。
目で見ず、耳で聴かず、心で感じる。大いなる山に己を重ねていく。あの人を捕まえるには、ただその姿を追い求めてもだめだ。
ここ数ヶ月追い続けてきた人の香りが城の中に漂っている。芳しい藤の花の匂いは四方から彼を包み込み、惑わせる。だが、全てに源がある。
迷ったら源を目指す。苦しくとも下るな。頂を目指せ。
鑑直に兵法を教えた旅の武術者はそう言っていた。水が低きに流れるように、人の心も易きに流れるという。戦いの中ではその人の心の傾きを読むことが大切だ、とも。
これまでのところ、城に現れた美しい少女との勝負ではことごとく動きを先に読まれて敗北を喫していた。勝ち負けを決するのはたった一つの約束事で、それは先にそのつむじに触れた方が勝つ、というものだ。
人の体でも急所中の急所であるのが頭蓋だ。刀や槍であっても組討ちであっても、相手に頭を取らせないことは勝敗の要となる。山を舞台にして少女と追いかけっこをしているうちに、これまで十分鍛え上げてきたと自負してきた武芸の腕にはすっかり自信を無くしてしまった。だが楽しいので続けている。
音と香りがそれぞれの源を発して己の五感に達する頃には、城と山のどこに何がいるのか、それこそ軒に止まっている鳥の数まで悟ることができるようになっていた。
そして鳥や草花とは違う気配が、この城の中に自分以外にもう一つある。それがいつも以上にはっきりと感じられるのがうれしかった。
相手の気配をとらえたまま、今度は己の気配を消していく。人や獣は生きている限りその存在や痕跡を完全に消し去ることはできない。だがいないように見せかけ、感じ取らせないようにはできる。肉食の獣や猛禽が山と空に君臨し、他方で草や木の実を食する弱き者たちがいて共に滅びないのは、どちらも相手に悟られぬよう力を尽くしているからだ。
相手がこちらを見ている。もう捉えているぞと気配が笑う。
そう思い込んでいるなら、思い込ませたままでさらに上を取る。この数ヶ月、相手に出し抜かれ続けてたどり着いた真理がそれだった。
鑑直はそっと足を進めるが、周囲の空気は静まったまま動かない。この技を身につけるのに三月を要した。
祠の屋根の上からこちらの様子を探っている相手の気配を見逃さないように、少しずつ距離を詰めていく。元いた場所に、先ほどまで身につけていた薬籠を置いてある。
山に出入りしていると傷が絶えない。その傷を癒すための薬の材料はやはり山から授かる。薬草の多くは強い匂いを発し、その薬効を人に知らしめる。もちろん、強い匂いは己の存在を明らかにしてしまうのだが、鑑直はここ数日、あえて傷薬を体に塗って山に上がっていた。
そして今日は、薬籠だけを持って膏薬を傷に塗ることはなかった。百度を超える勝負で、彼女がどうして毎回鑑直の先手を取れるのか。それは常に彼女が頭上から気配を摑んでいるからだった。人は背後の気配には敏感だが、頭上の気配にはやや鈍い。人の暮らしの中では、前後左右の獲物や敵に敏感でなければならない。
山中には巨岩や大樹があり、そこは恰好の隠れ場所だ。山人はそこをうまく使って狩りをし、また戦う。山の民が山を上手く使って戦うことは当然のことではあるが、頭上まで自在に使って戦える者は数少ない。
鑑直はこういう一対一の勝負を好んでいた。今の戦の形は、村の老人から聞いたものとは大きく様変わりしている。一族郎党が数十人から数百人小競り合いを行うのではなく、数千数万の人間が正面からぶつかり合うような戦いが増えている。
九州豊後の大大名で帆足家も頼っている大友家に従い、何度か戦に出たことがあるが真正面から無数の命を叩き潰すような、酷いものだった。
忍びとして雇われて探索の任に当たっただけで、鑑直の弟、吉高は重傷を負うことになった。郷を守るために戦うことに恐れはないが、大きな戦などごめんだ、と身内で話したものだ。
だからこそ、この城と山で行うような戯れのような「戦い」が楽しくて仕方がない。その楽しさの理由を鑑直はよくわかっていない。芳しい香りの源を探り、美しい黒髪のつむじに触れることを考えるだけで、全身が沸き立つような心持ちがする。
その時は近づいている。これまで手の届く間合いにまで入れたことはない。今回に限っては、こちらの気配に相手が気づいていないようだった。
これまでも近づかせておいて、いつの間にか上を取られたことがある。だが今回は違う。相手も同じように五感を使ってこちらの気配を探っているのは分かっていた。薬籠から放たれる膏薬の強い香りが、うまく鑑直の気配を隠してくれている。
もう少しでこちらの手が届く。全身の力を抜き、わずかに膝をたわめる。決戦の時が近いほど、体の力を抜かなければならない。柔らかく、漂う風に己の心と体を乗せていく。一気に摑みかかるのではなく、緩やかに包み込んでいく。気づいた時には相手は己の爪の下にいる。それが山での戦に勝つということだ。
二
黒く艶やかな髪が芳しい香りの源だ。
ここまで近く、そして強くその芳香を感じたことはない。手の届く距離に、これまで平静を保っていた心の臓が大きく躍動した。
日光を受けて艶に輝く髪がわずかに揺れてこちらを振り向いた。ニコリと笑った口元にかわいらしい八重歯が覗いた。それに一瞬目を奪われている間に、つむじを軽く叩かれてしまった。
「今日も私の勝ち」
凜々しく目じりがきゅっと上がった大きな瞳がこちらを覗き込んでいる。この辺りではあまり見かけない、すっきりと鼻筋の通った美しい顔立ちの若い娘だ。ただ、普通の少女と違うのは鑑直が見上げるほどに大柄な体つきをしていることだった。
「……きれいだ」
思わず口から漏れ出た言葉に、少女は一瞬あっけにとられていた。
「負け惜しみに変なこと言わないで」
「負け惜しみなんて言っていない。今日は惜しかっただろ?」
「負けは負け」
「惜しかったから名前を教えてくれ」
少女はけたけたと笑い、
「小梅」
と名乗った。その堂々たる体軀と身動きの隙のなさと、かわいらしい名前が不釣り合いでますます好もしいと鑑直の心はときめいた。
さらに話そうと試みた時には、その美しく大柄な少女の姿は消えていた。確かにここにあった香りもまだ鼻の奥に残っているのに、立ち去った気配がない。
城のどこから出て山のどの方向に消えたか、それすらもうかがうことができない。呆然としていると背後の方から鑑直を呼ぶ声がした。
弟の吉高が、山によく響く声で自分を呼んでいる。鑑直は刀の柄で広間にある柱を一つ叩いた。山から切り出した椎の大木で作った城の大黒柱は、乾いた良い音を立てる。鑑直は吉高ほどの良い声は出せない。戦場では兵たちに命令を下すための大音声が必須だが、鑑直の声は元服した男子にしてはやや細かった。
「兄上、これより軍議を開くそうです」
声は良いが、吉高には右腕と右目がない。大友家の命で探索方として島津との戦に出た際に乱戦に巻き込まれ、年若いながら仲間を守るためにしんがりとなって戦い重傷を負っていた。
「また何か揉め事か?」
帆足郷は四方を山に囲まれた小天地だ。その小天地の中での争いをどれだけ収めても、山を隔てた先にある大きな力同士の諍いに巻き込まれることからは逃れられない。
「もう戦は嫌だな」
「俺だっていやですよ。これ以上目玉や足がなくなったら大変だ」
吉高は不自由な体を軽やかに使って山道を進んでいく。鑑直は大きな戦が好きではない。戦は華々しいが、その陰で多くが死んだり体を損なったりする。命を拾ってもその傷のせいで働けなくなる。誰もが力を尽くして働かなければ生きていけないのが山の暮らしだ。美しいが貧しい土地で、命や体を損なうような戦に何の意味があるのか。
「それで、やはり相手は島津なのか」
「残念ながら」
「勘弁してくれ」
代々受け継いできた土地を奪おうとする者が現れれば命を失おうと肉体を損おうと、戦わなければならない。一族郎党を養えなくとも、玖珠郡衆は境を越えて奪いにはいかない。生きてゆくことを第一とし、その先にある豊かさへの欲を抑えなければ、山では生きていけない。
帆足の地名を冠した鑑直の家は、この小天地をまとめ上げる有力な一族だ。天平の古き世より前に人が住まうようになって久しく、そして帆足家をはじめとする国衆たちが中心となり「侍の持ちたる地」として数百年の時を過ごしてきた。
帆足家当主の嫡男である鑑直は、道を歩けば「若君さま」と人々に頭を下げられる立場にあるが、父からは民に対して決して傲慢な態度をとってはならぬ、と厳しく戒められている。
何かことが起これば時に命を懸け共に戦う仲間であり、人数が限られている山間の小勢力では一人一人をおろそかにすることはできないのだ。
「それにしても兄上、また一人で日出生の城に登っていたのですか」
「何かことが起きた時に使う城なのだから、親しんでおくのは悪いことじゃない」
「親しんでいたのは本当に城や山だけですか?」
何か勘づかれていたのか、と恥ずかしくなったが何も悪いことをしているわけではない。
「軍議なんだろう。早く里に降りるぞ」
山道は険しいものの、馬一頭と兵一人が並んで歩けるぐらいの道が整えられている。閑散とした山間ではあるが、それでも久留米と国東を結ぶ街道が通っている。歩くのに邪魔になる石や木の根は、郡の人々が少しずつ取り除いた。ただ、道は整えられているが山のあちらこちらに砦が築かれ、外敵を迎え撃つ備えも抜かりはない。
うっそうと生い茂った木々に隠されて城の構えは麓からは窺えない。山のあちこちにしつらえられた物見台からは、城に迫ろうとする敵の動きを逐一摑めるようになっていた。敵味方の動きを互いに伝え合うために、鑑直はそれこそ山ネズミの巣穴一つにまで精通しているつもりだった。
その彼をもってしても、日出生城に現れる小梅という謎の少女を捉えることができない。彼女への想いは募る一方で、自分以上に山を速く走り、この山と城を知っているものがいるなら、もし彼女が敵側の人間となった時に退けることができなくなる。それが気がかりではあった。
三
戦になれば、あの子を追いかけることもできなくなる。日出生の城は普段は使われていないが、戦時には街道の要を押さえる大切な拠点となる。そうなれば、彼女が敵や密偵と間違われかねない。
ただでさえ山の怪異が人々を脅かしている中、島津も迫ってくる。帆足家の人間としていつまでも遊んでいるわけにはいかなくなる。ため息と共に郷の入口近くまでくると、人のわっと笑う声が聞こえた。そのざわめきの中心にいる男を、日出生の城で見かけたような気がした。
あらためて見ると、男は明らかに異相だった。
春秋の花の盛りをそのまま写したような鮮やかな小袖を身にまとい、鼻筋の通った涼やかな顔にはこれも目を奪う隈取が施されている。頭は頭巾で覆っているが僧形ではなく、銀色に輝く髪が背中に垂れている。
男は大きな行李を傍らに置いている。その前に並べられているものを見て、この男が旅の商人であることを知った。各種の丸薬や塗り薬がその効能書きとともに並べられている。旅の商人や山伏たちが奇妙な恰好をして人目を引こうとするのは、珍しいことではない。
だが、人々が見ているのは並んでいる薬の数々ではなかった。
三尺四方ほどの緋色の毛氈の上に二体の小さな人形が立っている。男がふっと息を吹きかけるとその一方が少年の姿に変わった。
その姿を見て鑑直はぎょっとした。人形の衣装の色は今日着ている衣と同じ、そしてその土人形の顔は鑑直自身そのものであったからである。里の人々がそれに気づいている様子はないのも奇妙だった。
そして、薬売りがもう一方の人形になにやら歌いかけると、その人形はゴツゴツとした体つきの醜い怪物へと変わっていった。鑑直に似た少年は、その怪物に引きつけられるように近づいていく。危ない危ない、と人々が囃し立てる。
鬼がずっと少年を見つめていたが、やがて背中を向けて逃げ始めた。予想に反して鬼が逃げているのを見た人々は、しきりに野次を飛ばす。だが、その鬼の表情を見てその野次はやがてしんと静まり返った。逃げている鬼の顔には笑みが浮かんでいたからである。
相手が鬼であるにもかかわらず少年は追い続ける。二人は時に走り、時に踊り歌い、その様は見る者を楽しませた。人々が手を打って二人の遊びを盛り上げている間、鬼はずっと少年に背中を向けていた。その鬼の人形は何かにつまずいて思わず、その顔を少年に向けてしまった。
楽しげに遊んでいた少年はその様子を見て表情を一変させた。
遊び相手であったその鬼に対し、少年が腰の刀を抜いた。鬼もそれまでの楽しげな様子から一気に本性をあらわす。体が膨れ上がり、巨大な角と爪が伸びて光を放ち、禍々しい姿へと変貌した。
今や少年の顔には楽しそうだった表情は消え、敵意と恐怖に満ちたものとなっていた。少年の顔が奇怪な鬼の顔を上回るようないびつな憎悪に塗り換えられていく。
鬼は一度激しく咆哮し、その爪と牙を少年に向けた。両者の体が交錯し、次の瞬間、鬼の首が地面に落ちた。鬼は両腕を広げたままでその爪を少年に振り下ろすことはなく、牙が首筋を食いちぎることもなかった。
観客たちは満足し、それぞれ必要な薬を買って家に戻っていく。
鑑直はただじっと、首を落とされた鬼の土人形を見ていた。化け物を殺すことは間違ったことではない。人に仇をなす妖の話は、阿蘇の山裾でも珍しいものではない。鬼は人に遭えば人を食う。だから人は鬼を見つけたらそれを斬らねばならない。
その時、じっとこちらを見る視線を感じた。
顔を上げると、薬売りが半ば笑みを含んだような表情で鑑直を見つめている。
「お楽しみいただけましたか」
男はゆっくりと耳に心地よい声で聞いてきた。
「話の結末が気に入らない。なぜ殺した」
「人が人以外のものと交わると災いを招くというのは、世の常でしょう?」
薬売りが静かに言う。
「ましてやモノノ怪と共にあるなど。モノノ怪は滅ぼすしか道がないのですから」
「もし滅ぼすことができなければ、どうなるのだ?」
「そりゃあ、あなたが滅ぼされるだけだ」
なんとも不吉で不快なことを言うやつだ、と鑑直は腹を立てた。
「ここにはそんなものはいない。薬を売り尽くしたらこの郷から去るが良い」
「ええ……。この地からモノノ怪がいなくなれば、いずれ」
モノノ怪などここにはいないから、と鑑直は念を押すように言って薬売りの前を離れた。
四
館に戻ると、館の周りにも人だかりができていた。周囲の国衆から使いが来ることは珍しくないが、このように人だかりまでできるのは滅多にないことだ。館の壁の周りには、人々を近づけないように数名の兵が槍を持って立っていた。これも珍しいことだ。
「妙見丸さま、梅千代さまがお待ちかねだよ」
鑑直を見つけた老兵の一人が、慌てているせいか父子を幼名で呼び、早く入るようにと手招きをした。門をくぐる前に強い薩摩訛りの男たちが声高に話しているのが聞こえる。
鑑直が門を入っても、ちらりと一瞥をくれただけで会釈をするわけでもない。
「薩摩の使者が何の用だ」
薩摩と帆足の里がある玖珠郡はさほど遠く離れているわけではないが、言葉の訛りはかなり違う。横を通り過ぎる短い間でも、話の内容の半ばは理解できなかった。ただ、こちらを向いて何やら気味の悪い笑みを浮かべているのが不愉快だった。
館の広間に至ると、上座に父の帆足孝直が座り、下座に薩摩からの使者が座っていた。若い侍が一人、そしてもう一人は僧侶であった。
広場にはちりちりと張り詰めた空気が流れていた。喧嘩をしに来たわけではないから皆表向きは平静を保っているのだが、鑑直は父が激怒していることがよくわかった。怒りの証である青筋が首のあたりにくっきりと浮かんでいる。
鑑直は後見人をしている叔父に手招きされて廊下に腰を下ろし、薩摩からの使者が何を言うのかと耳を澄ましていた。
「我らに合力していただければ悪いようにはいたしません。ここ何十年世の中は乱れ、九州でも戦が絶えませんでした」
この時、九州は南に島津、北西部に大友、北東に竜造寺といった大勢力が割拠し、その間に星のように散らばる無数の国衆や土豪たちがひしめきあい、それぞれの土地を文字通り懸命に守っている。父祖から伝えられた土地を守ることが第一であり、そのために最善の道を選ぶべく四方の諸勢力との交渉は欠かせない。
「耳川の戦いで島津と大友の力は完全に逆転いたしました」
慈円と名乗った使僧は絵図を広げて力説する。これまで大友家は豊後・筑前・肥前・筑後・豊前・肥後を影響下に置く九州の覇者だった。
天正六年、日向伊東家の要請を受けた大友家当主は、大軍を率いて南下を開始した。その狙いは島津の討伐。しかし日向耳川の合戦で島津義久に大敗北を喫し、大友家の柱石である佐伯、吉岡の諸将を失った。
この敗北で、それまで大友家に従っていた肥前の竜造寺、筑前の秋月や筑紫が離反。一族の重臣たちですら離反が相次ぎ、島津に降る者も続出した。
その流れを受けた島津は九州南端、薩摩・大隅を完全に掌握した後に日向を押さえ、さらには肥後にも手を伸ばして一気に勢力を伸長した。
窮した大友は本州の天下人に接近し、さらには残った勢力を各地に派遣して島津に抵抗。この島津への反攻戦に玖珠郡衆も動員されていた。
その後戦が長期にわたる様相を見せたことで、一度和睦が成立していた。しかし、本州での新たな天子を巡る混乱に乗じ、大友家を支えてきた名将、立花道雪が陣没したことで情勢は一変。島津は九州平定の野望を隠さず北上を始めたのだ。
帆足郷のある玖珠郡は天険に四方を囲まれ、大勢力に従属はするものの臣下とはならず「侍の持ちたる地」として長く自立してきた。
島津が九州を完全に平定するにあたって、敵となる者が籠ると厄介なこの小天地に調略の手を伸ばすのは自然な流れではあった。
「長く盟約を結んできた玖珠郡の国衆たちを裏切れと申されるか」
それは言葉が悪い、と慈円は大仰に手を振った。
「帆足郷の人々は義に厚く戦に強い。不義をせよ、ではなく賢明な判断を下されよと申し上げております。島津の強さは帆足さまもご存じでしょう。戦となれば、しかも我らを相手とするなら多くの人死にが出る。それよりは我らに合力して父祖以来の地を守り、さらに新たな知行を得て共に富貴の道を歩むべきではありませんか」
なるほど、と父はしばらく考え込む様子を見せた。
「島津どのの力は阿蘇九重山麓一円に鳴り響いておる。何百年とその家を保ち、九州屈指の弓取が揃っている。真正面から戦って勝てる相手ではない」
慈円は調略がうまくいく予感にわずかに前のめりになった。
「しかし甘い誘いに乗って旗を翻すような者たちが、周囲から敬意を持って迎えられるだろうか。島津も寝返ったからと言って、強弱を理由に簡単に寝返る人間を心から信用し、味方として迎え入れる約束ができようか」
「それはもちろん」
慈円は自信たっぷりに頷いた。
「先年薩摩、大隅を一統した際にも、各地に割拠する諸侯を友として迎え、今では共に繁栄を楽しんでおります」
ほう、と孝直は目を細める。
「我らは阿蘇を仰いで長く暮らし、当然島津の方々の強さもよく知っている。一族郎党結束し、戦となれば鬼神のごとき強さを見せる。だが、新たに加わった者たちを先頭に立てて大切な同胞の盾にするという話も聞いておるぞ」
慈円はわずかに苦い表情を浮かべた。
「我ら山の民は探索方としてあちこちの戦場に出向いて見聞きしているのでな。返り忠は信用ならざるものとして、その心底を測ろうとする気持ちもわからんではないが、辞を低くして寝返りを頼んだ後、盾にされるのではたまったものではない」
慈円は顔に浮かんだ苦みを飲み込み、
「そのようなことは決していたしません。玖珠郡衆は別格でございます」
使いに来た二人は落ち着いた口調でぬけぬけと言い放った。
「九州一円を島津の旗のもとに集めようとしている。その根本にはこの戦乱の世に静謐を取り戻す尊い志がございます」
「なるほど、立派な志だ」
孝直は耳を一つ搔いた。
「ではもう一つ知っていることを告げようか。島津の戦いぶり、確かに勇猛果敢で将から兵に至るまで訓令はよく行き届き、その武勇は九州一だろう。だが戦の後のふるまい、尊い志に合っているとはとても言えない」
「と、申しますと?」
「捕らえたが忠誠を誓わない兵や戦いに役に立たなそうな女子供を、異国の商人に売りさばき、種子島の鉄砲の代金にしていると聞いている」
いやいや、と慈円は笑って見せた。
「それは我らに敵対する者が流している虚言でしかありません。力弱き者たちが偽りを武器にして味方をとどめておこうとするのは世の常でございます。聡明な帆足の皆さまはそのような偽りに惑わされることなく、真に味方すべきは誰なのか。何を信じ、誰と共にあれば先祖伝来の土地を守れるのか、よくお考えいただきたい。それに……」
帆足と古後の間柄が悪いことも承知している、と付け加えた。島津の使者たちはひと月の猶予を与えると告げて、南へと去って行った。
「戦の準備をしたいならしろと言わんばかりの、余裕を持った日の取り方だ」
使者が去った後、重い沈黙が一同の間に漂っていた。
「こうして四方に使者を送ることで、島津の侵攻が近いことを大友や各地の諸侯にも知られると分かっているだろうに。己の力によほど自信があるのだな。しかし、どうすべきか。妙見丸は役に立ちそうにもないし……」
「俺は役に立ちます!」
鑑直は憤然と言った。
「ああ、すまん。古後の方だ。あいつも幼名は妙見丸でな。紛らわしい名をつけるものではなかったわい」
結局、孝直だけでなく家の者も誰一人妙案は浮かばず、皆黙り込むしかない。
鑑直にはまだ大きな戦の経験がない。探索方で雇われたことこそあるが、正規の軍勢を相手にしたことはなかった。実戦といっても野盗を相手に数人討ち取ったことがある程度だ。
九州の南に住んでいれば、島津の大きさを意識せずには暮らせない。その武力や財力、そしてその蛮勇、どれをとっても帆足郷が敵うものではない。
「古後と組むべきです」
鑑直の言葉に父は驚いたように目を見開いていた。
「いまどういう間柄かわかっていよう」
「玖珠郡は皆で手を取り合ってこそ『持ちたる地』であると教えられてきました」
「だが、あやつは変わった」
苦々しく言う。
「我らを全く信じず、境を閉ざしたままよ」
「街道の関は閉ざせても山を閉ざすことはできません」
「何か妙案があるか?」
「わずかにですが」
「力を貸す。思いつくことは何でもやるがいい」
しかし一方で、鑑直は自分たちの武勇が島津にどれほど通用するものか試してみたいという昂りも感じていた。郷の仲間たちはみな山で鍛え上げられ、一騎当千の勇者も揃っている。だからこそ何代にもわたって、この小天地を国衆たちは保てたのだ。
武者震いを感じながら、門の外に出ると先ほどまでいた人だかりが消えている。
里の外から使者が来た時には郷の人々が集まり、孝直から成り行きを聞くのが常のことだった。だが、何の説明もなされていないのにもう人が散っているのは珍しかった。
数人残っていた者たちが鑑直の顔を見て頭を下げるとそそくさと去っていく。父は島津に臣従するつもりはない、と使者に明言していたが皆の心がそれでまとまっているわけでもなかった。
五
帆足郷と谷一筋を隔てた西側に、玖珠の山々がそびえている。山や谷にはそれぞれ集落があり、その人たちを束ねる国衆や土豪がいる。命の源である山や川を守っている人たちは、わずかな平地に米や芋を植えて暮らしているが、ここの産物の主なものはもちろん、山の木々である。雄大な山懐に抱かれて大きく育った木は九州一円だけでなく、遠く都まで運ばれるものもある。
谷の間を、乾いた音が小気味よく響いている。
五人がかりでようやく抱えられるような巨大な木の幹に、何度も斧が打ち付けられている。斧をふるっていた若者は不意にその手を止めて辺りを見まわす。巨木の立ち並ぶ山の中は、真昼でも木下闇の暗さがあった。
山は暮らしの源であり、崇める存在でもある。山の恵みを授かって命を支える人々は、敬意と畏れを忘れることはない。この日も山に入る前に神に供物と祈りを捧げていた。
なのに山の気配が一変する。山の神は時に人を脅かし傷つけ、命を奪うことすらある。その一方で助けてもくれるはずだ。山の神への祈りを口にしながら、斧を大切に胸に抱いて逃げようとした。
何かが自分を見ている。それまで話に聞いたことがあるが実際に目にしたことはないその妖異は、山に精通したものですら心を惑わし取り殺してしまう。
何もいないのに何かがいる。何もいないという感覚を信じられない。
いつしか彼は走り出していた。だがどれだけ走っても見覚えのある杣道にたどり着かない。膝が震えるまで走って、あまりの苦しさに足を止める。すると目の前に、先ほど飲みほして落としたはずの水筒が転がっていた。
「う、牛鬼の道に入っちまった……」
全身から血の気が引いていくのがわかる。山において決して分け入ってはならぬ道。それは山の主と畏れられる牛鬼の道に足を踏み入れてしまうことだ。その名だけが知られ、姿を見た者はいない。名の通り巨大な牛、恐ろしい鬼と噂されるが誰からも信じるに足る話はない。
「助けて……」
あの尾根にたどりつけば、村へ続く沢が見えれば……。
しかし、よく馴染んだはずの景色は見えてこない。その時彼を呼ぶ声が聞こえた。助けに来てくれた声のする方に走っていこうとする頭の隅に、この先には険しい崖があるという警告が浮かんだ。
「助かりたくないのか」
声と己の記憶のどちらが言っているのか、もはや若者にはわからなくなっていた。だが同じように進んでもまた元の位置に戻ってくるだけだ。だったら、声のする方に行けば良い。
この山のことは幼い頃から誰よりも知っているはずという自負が、助けの声にすがりたいという思いに負けてしまった。
踏み跡のない道に確信もなく進んでいく。ただ、己を呼ぶ親しい声が助けてくれるという希望だけを抱いている。その一方で、この先に進んではならぬ、とこれまでの経験と先達の教えが足を止めようとする。
もう少しで声の源にまでたどり着く。
温かく懐かしい声が自分を迎えに来てくれている。あと一歩でそこに着く、と足を踏み出したところで強力にがっしりと肩を摑まれた。
「この先は崖になっている」
冷汗が首筋を流れ落ちる。激しい動悸と息苦しさの中で、死なずにすんだという安堵が湧き上がってくる。
「お前のような山男が道に迷うとは珍しい」
そこでようやく、彼は正気に戻った。
この強く大きな手と鈴が鳴るような美しい声。山の香木のような芳しい香りが、恐怖と戸惑いを収めてくれる。
「小梅、俺は……」
「死の道に分け入っていたよ。あの先は何もないのに、踏み跡だけはついているから迷いやすいんだ」
「声が聞こえたんです」
「親か友の声がしたんだろ?」
若者はこくこくと頷く。
「己を信じることができなくなった時、牛鬼が現れて食われてしまう」
「小梅、牛鬼が怖くないのか」
「怖くはないかな」
見上げるように背の高い、そして若木のようにしなやかな手足を持つ少女が彼を見下ろしていた。この人なら確かに牛鬼も怖くないだろうと、若者は畏敬の念と共に見上げる。
「お前が切りかけていた木なら、私が切っておいたよ。もう怖くてこの後仕事にはならんだろう?」
帰り道、小梅は切り倒された大木をひょいと肩に担ぐと、軽々とした歩調で杣道を下って行った。
玖珠郡の国衆の一人である古後摂津守の娘、小梅と呼ばれる少女はその可憐な容貌もさることながら、身の丈は六尺近く、その膂力は勇者十人力とも二十人力とも言われていた。
若者は知っている。この小梅が力を発揮すれば二十人力どころではないだろう。屈強な郷の男が何十人がかりかでようやく麓におろせるような大木を、軽々と肩に担げる。だが、もう少しで郷というところで小梅は肩に載せていた大木を下ろした。
「後はみんなにやってもらって」
「でも、村までもう少しだ」
小梅の美しい横顔には含羞が浮かんでいた。
これほど強くて美しいが、その現場を見られることは好まない。
「私はもう一度山に行ってくる」
小梅が朝から夕暮れまで山にいることは珍しくない。村の一日は忙しく、男も女も休む間もないぐらい働いているが、ここの主である古後摂津守は娘を自由にさせていた。
誰も文句は言わない。いや、言えないのだ。小梅を一目見たものは、善し悪しのすべてを論ずることを自ら禁じてしまう。それは山人たちが山の善し悪しを論じないのと同じだ。
若者は城とも言えないような国衆の館に戻って、すぐ古後摂津守と話をさせてほしいと願い出た。山で異変がある時は誰であれ領主に注進することを許される。
「牛鬼が出たか」
顔を見るなり摂津守は言った。
「小梅さまに助けていただきました」
「そうか……もしや、牛鬼を討ち取ったのか?」
「いえ、化かされて崖から落ちそうなところをすんでのところで」
「最近多くなっておるな」
と太い眉をグッと寄せて渋い顔になった。この巌のような顔の父から小梅のような可憐な容貌の娘が生まれてくるのが不思議だと噂されている。
「あれでは安心して山に入ることができません。小梅さまも妖異と戦うのはどうしたらいいかわからない、と」
「そのことだがな」
摂津守は広間の一隅に目をやった。すると先ほどまで無人だった闇の中に、一つの影が浮かんでいる。
「あれは……」
「旅の薬売りだ。モノノ怪を求めてやってきたそうだ」
「薬売りがどうして化け物退治に?」
「知らん。だがわしらは今化け物の相手をしている場合ではない。妖の相手は妖しい奴に任せておけばよい」
「ではいよいよ島津がこちらに攻めて」
「そうさせない方策を考えている」
だがその表情に牛鬼に化かされた時のような恐怖は浮かんでいない。薩摩のような強大な相手と戦うことを、玖珠郡の者たちは恐ろしいとは思っていない。「侍の持ちたる地」が玖珠郡の別名である。小天地を小領主である国衆たちが手を携えて守ってきた。北の大友と南の島津の間で綱渡りを続けてはや数百年、血と交渉と鍛錬の末に勝ち取ってきた平穏である。平原で大軍同士が戦うような戦はできないが、山に引き込んでしまえば全てが彼らの武器となる。だが、古後摂津守の考えはそうではなかった。
六
「我らは島津の申し出を受け入れ、道を譲ることとする」
館に集められた摂津守の家臣たちは主君の言葉を聞いて耳を疑った。
島津からは九州全土を支配下に置くということで従うように使者が来ていた。玖珠郡衆は豊後の大勢力、大友家と関係を結び、緩やかではあるが従属関係にある。もし大友家に一大事があれば従い、玖珠郡に危機が訪れれば大友家が援軍を出す約束となっていた。だが、島津に従うということは大友との間柄を捨てて敵対するという意味になる。
この辺りの国衆や土豪たちは帆足郷も合わせ、一丸となって島津と戦うのだろうと皆が思っていた。それだけに摂津守の言葉は衝撃をもって受け止められた。
「正気で仰っているのですか」
摂津守もかつては武威をもって知られ、だからこそ郡の国衆たちから推されて棟梁として皆をまとめている。君臣の間柄でなくとも、その言葉は重い。
「我ら玖珠郡衆の成り立ちは今さら説明せずとも摂津守どのはおわかりのはず」
心ある者たちは摂津守を諫めた。
「島津の使者に脅されたというだけで島津へ降るなど、玖珠郡衆の名折れだと思わないのか。我らのもとにも使者が来たが、これある面々誰一人心を動かしてはおらん」
摂津守は盟約を交わした国衆たちの諫めにも表情一つ動かさなかった。だが、
「今こそ仲たがいされている帆足郷と和解し、力を合わせて戦いの備えを整えるべきではござらんか」
そう進言された時は顔色を変えた。
「帆足とは組まん。奴には積年の恨みがある」
隣接する二つの小天地の間には美しい友情があるのみではない。隣り合っているからこそ、互いの土地、境、人や財物を巡って度々紛争を繰り返してきた。大友家の仲裁によって互いの境界線を定め二代前からは互いの一族を嫁に出したり養子に出したりして平穏が保たれてきたが、今の代になって急速にこじれた。数年前に縁談が持ち上がったこともあったが、それも立ち消えとなっていた。
「最早私情は捨てるべきです。帆足の人々と手を組み、島津の侵攻を食い止めるべきではありませんか。同じような誘いが帆足にも行っているはず。彼らは義理堅く、島津につくことをよしとしないでしょう」
その言葉に摂津守が顔色を変えた。
「何が義理堅いだ。お前にあいつの何がわかる!」
それを聴いて国衆たちは顔を見合わせた。
「わしは帆足の主とはよく知った間柄だ」
「ならばなおさら、人柄もよくご存じでは」
「わからぬ奴らだ。わしは知っているからこそ、帆足と手を組むことは許さぬ。だが玖珠郡を守る務めも果たさなければならぬ」
「だからと言って島津に降るのは……」
これまで「侍の持ちたる地」を支えてきた国衆たちは一様に渋った。
「まあ落ち着いて考えよ。先ごろ島津から来た使者への答えはまだ与えておらん。我らの動きを悟られてはならん」
摂津守は郡の有力者たちに自らの考えを語った。
「これまで、肥薩の諸侯の半ばは島津に従うことを良しとしなかった。その何よりも大きな原因は、捕らえた者たちを奴婢にしたり、海外に売り飛ばしたりという噂が絶えなかったからだ。それは島津の話を聞かず、敵対したからではないか?」
反応を確かめるよう、一人一人の顔をじっくり眺める。
「最初から味方に付いたものを売り飛ばすことはせんだろう。玖珠郡の山々は豊かであるが養える人数に限りはある。だが九州一統を目指す島津の傘の下、敵となる者の版図を手中に収めれば苦しい山暮らしともおさらばできる」
すると、玖珠郡の国衆たちの多くは摂津守が予想していた通り、これまで通り大友の味方となって、代々受け継いできた土地を守ろうと口々に言った。
「わからぬ奴らだ」
と古後摂津守は怒りをあらわにしたが、もともと主従ではないからその怒りに忖度する者もいない。ただ、困惑を隠さない者もいた。
「我ら玖珠郡衆は郡の危機においては小異を捨てて大同につき、ことに当たらなければ何も為せない。それは摂津守どのもよくご存じのはず」
「確かにそうだ」
「摂津守どのは遠き危機に気を取られて近き懸案から目を逸らしているのではないか」
渋い顔になった摂津守は一つ鼻を鳴らした。
「山に入った者たちが帰ってこない、という話か」
「人々は島津よりもそちらを恐れています」
「下々の者に遠くの景色は見えぬからな」
「郡を動かしたければ、まずはその下々の憂いを取り除くのが肝要でしょう」
こう言われると摂津守もこれ以上強引に話を進めることはできなくなった。
「それはもう、手は打ってある」
「手、ですと?」
一同が摂津守の視線をたどる。その先に、鮮やかな衣の裾が翻る。確かにそこにいたのに、もう姿を消している。
「確かに何者かが控えていたようですが……。山伏や拝み屋の類ですかな」
「薬売り、だそうな」
「薬売りが、化け物をか。面妖な話だのう」
国衆は首を振り、島津にどう対するかという難しい話が先延ばしになって半ば安堵したような表情を浮かべて、それぞれ城へと帰っていった。
七
郡の主だった者の反対が多いまま動くことはできない。古後家だけが島津についたところで、追従する者がいるとも思えなかった。
ましてや牛鬼が出て人々の心も不安に覆われているとあっては、大きくことを変える時ではない。だが、摂津守には切り札があった。その切り札一枚で皆の考えが変わる、そして心の内からずっと消えなかった憂いもなくなる。
門の方から嫋やかな声が聞こえて、広間に大きな影が入ってきた。その少女を見て、摂津守は一度こくりと唾を飲んだ。
我が娘なのにこの美しさと威圧感は何だ。深い山の頂に立つ巨木のような迫力に気圧されまいと、摂津守はぐっと胸を張る。
小梅は品よく膝を折り、
「妙見さまの祠に使うご神木を、村の若い衆が見つけて切り倒してくれました」
そう言って頭を下げた。
「牛鬼には出会わなんだか。帆足の奴ら、古後との境に妙な化け物を放ちおって……。ともかく、杣の若い者を牛鬼から助け、木は小梅が運んでくれたのだろう?」
恥ずかしそうに小梅が頷く。
「それは大儀であった」
「牛鬼のこともあり、急ぎ一本を持ち帰ってまいりましたが、本殿の梁に使う分は古式に則り神職を先頭として厳かに下ろすべきだと存じます」
「それはもちろんのことだ」
鷹揚に頷きながら摂津守は内心震えあがっていた。
「お前がいれば百人、いや千人の力がある。これからも我が家のため、玖珠郡衆のため役立ってほしい」
「娘が家のために力を尽くすのは当然でございます」
よしよし、と笑みを浮かべた摂津守は懐から書状を取り出した。
「家のために尽くすとの言葉、偽りはないな」
「もちろんでございます」
「よく聞け」
書状を開いて咳払いを一つする。
声に出して読み進めるうちに小梅の表情が青ざめていくのを見て、言いようのない快感を覚えていた。聞き終えた小梅は一つ大きく呼吸して心の波を落ち着かせようとしていた。
「これはもう、決まったことでしょうか」
「いや、島津からは縁談の申し出があっただけだ」
小梅は顔を伏せ、
「父上の命とあればいかようにでも……」
その声は小さくか細い。俯いていても一段高いところに座る摂津守と頭の位置が同じだった。
「島津は玖珠郡と誼を通じたいらしい。豊前や筑前に軍を送るに便の良い地だからな。我らはその便の良さを使わせてやる代わりに、余計な戦を避けられるということだ」
友誼を確かなものとするために姻戚となるのはよくある話だ。小梅は男子でいえばもう元服している年であり、女子ならば縁談があってもおかしくない。ただ、まだ縁談を持ちかけたことも持ちかけられたこともなかった。
おおよそ色恋といったものに興味がないようだと感じていたから、島津への輿入れをただ黙って受け入れると摂津守は考えていた。しかし、小梅はすぐには頷かなかった。
「いきなりのことで驚いたか?」
「……はい」
「今日明日というわけではない。輿入れするとなれば、調えなければならぬ物も多くある。その間にお前も心構えができよう」
下がってよい、と言ったが小梅は動かない。そのうちに、摂津守は全身に悪寒が走り、震えだすのを感じた。その悪寒の源が恐怖であることを彼は知っている。目の前で顔を伏せている娘の首筋や肩口から目には見えないがすさまじい気配が立ち上り、思わずのけぞりそうになる。
「ど、どうした」
摂津守は己の声が上ずっているのに気づいて腹立たしくなった。
娘が不満の気配を漂わせているだけで、どうして父で領主でもある自分が怯えなければならないのか。頼もしさの先に必ず苛立ちと恐怖がある。
だが一族郎党は小梅を見て、何かとてつもないことができるのではないか、と恐れと期待を共に抱いている。その心は本来郡の棟梁である自分に向けられるべきものなのに。
「一つ果たさねばならぬ約束があるのです」
小梅の表情にはこれまで見たことのない恥じらいの色が浮かんでいた。
「まさか……」
己の娘からそのような気配を感じるとは。摂津守は驚いて言葉に詰まった。
「まさか、懸想する相手がいるというのか」
「懸想というほどではないのですが、力を競っている相手がおりまして……」
その言葉はさらに摂津守を驚かせた。
「お前と力を競える人間がいるとは到底思えない」
「では、私と競えるような相手がいれば、その人は私の夫になるにふさわしいと認めていただけますか」
摂津守は全く信じていなかった。生身の人間でそのような男がいるとは思えないが。
「何か証があれば信じてやっても良いが……」
小梅はぱっと表情を明るくして父に頭を下げた。
八
島津がどうのこうのというのは、小梅にはよくわからないし知りたくもない。薩摩になぞ行きたくはない。ただどうすれば、鑑直と一緒に鬼ごっこを続けられるかということだけだ。だがどうすれば良いか、名案が浮かばない。考えることが苦手な小梅は、聡明な妹のもとへと向かった。
妹の豆姫は書見台の前に座り、唐土伝来の史書を広げていた。昔は一緒に武芸を鍛えていたが、体を動かすことは嫌いと公言するようになり、わざわざ唐土から取り寄せた難しそうな書を読んでいるのが常であった。
姉の姿を見て豆姫はわずかに眉をひそめた。書の読みすぎで目が少し悪くなっているという。
「私も見えなくなってきた?」
「ありえないでしょ。細かい文字から大きなものを見ようとすると視界がぼやけるだけ」
「山の緑を見て山の気を吸えば疲れた目なんてすぐに治るよ」
「姉さまは何かというと山よね」
「山には全てがあるんだよ」
「全ては先人たちが培った書物の中にあるもの。その証拠に姉さまは分からないことがあると私に頼るでしょ」
小梅は少しばつの悪そうな顔になった。山では全てのことがわかるが、人の心はわからない。
「父さまは私を嫁に行かせたがっているが、気が進まないんだ」
「気が進む結婚をする人はほとんどおりません」
豆姫はぴしゃりと言った。
「皆家の都合で嫁に行ったり人質になったりするのです。それは姉さまもよくご存じのはず。私だって少し前に縁談がありましたもの」
豆姫は帆足家の次男である吉高との縁談が持ち上がったことがあったが、吉高が島津との戦いの中で重傷を負い、立ち消えになった。
「それはわかってる」
小梅の苦しげな様を見て妹は表情を和らげた。
「でも姉さまにそれほど想いを寄せる相手ができるとは驚きです」
「べ、別に想いを寄せているわけじゃない。約束を果たさないままなのが嫌なんだ」
そう言いながらも小梅は自分の顔が熱くなるのを抑えられなかった。
「そもそも婚姻というのは」
妹は得意げに語り出す。
「それぞれ家の事情があって持ち上がるものです。もしそれを覆したいのであれば、それ以上の利益をもたらすものであると知らしめればいいのです」
「利……」
島津家に入る以上の利を自分に出せるとは小梅も自信がなかった。だが、山に関することなら何とかできそうな気がした。
「郡の人々を悩ませていることは……」
「牛鬼!」
その妖を討ち取れば、私の望む通りになるだろうか。
「家のこと、政のこと、そのように甘いものではありますまい」
「それでも、望みがあるならやってみたい」
「姉さまらしい。それを止める力は私にはありません」
小梅は意気揚々と屋敷を飛び出す。その背中を静かに見送った豆姫は、再び史書に目を落とした。
山に行く時はいつも心が軽い。
木々にも草花にも獣たちにも甘えることはできないが、気を許せる友人のもとに向かうようなそんな心の昂りを覚える。だが不意にその足取りが重くなった。小梅が島津家に入らなければ戦になるかもしれない、と父は言った。もし戦になれば帆足の人々は日出生城に籠って戦うことになる。
鑑直が城で待っている。
戦となれば追いかけっこなどやる暇はあるまい。もちろん、家や郡を守るために戦をするのは仕方がないし、自分が戦う覚悟もある。でも戦は嫌だ……。
日出生の城が近づくにつれ、ますます足取りは重くなった。ふと辺りを見ると、見覚えのない景色の中にいる。
うっかりして道を外れてしまったか。目の前にはきれいに岩が切り開かれた道が整えられている。この山中に整えられた道で知らない場所はないはずだが来た記憶がない。
このようなところで迷うはずがない。
この先にはあの人が待っている。迷いを振り払うように山道を登り続けると、やがて元の道に戻ってしまう。振り返ると木々の間を濃い霧が覆っているその霧の中にすらりとした長身の影が立っていた。
「鑑直?」
あれは鑑直ではない。交わってよいものではない。小梅は再び道を登り始めた。城は木々に隠れているが二重の堀と粗末な矢倉によって本丸を守る形が作り上げられている。彼女が鑑直を待つのはいつも本丸の屋根の上だった。やがて山の頂に近づくと、小梅は一度足を止めた。
(気になる続きは、ぜひ本書でお楽しみください)