日本は何時から不寛容な国になったのだろう
国連による「世界幸福度ランキング」で日本は出生時の平均健康寿命が2位であるにも拘わらず他者への寛大さが92位で先進国では最下位の50位前後に甘んじていると聞いたことがある。断捨離を敢行中の後期高齢者にとって買い取り業者の横柄な態度に触れる度に、日本は何時からここまで不寛容な国になったのかと腹立たしくてならなくなる。
何時の間にか日本人は相手の立場に立って物事を感じ取ることができなくなってしまった。そういえば子供の頃から耳慣れた「惻隠の情」なる言葉も聞くことがなくなった。なぜそうなったのかと思いを巡らせているうちに思い当たることがあった。現代人は生身の人間と触れ合うよりも仮想空間との係わりが多くなったからではなかろうかと。
先生に教えを乞わなくともインターネットを検索すればあらゆる答えが即座に得られる時代になった。更に夜間の見回りは監視カメラに、道中の安全はドライブ・レコーダーに任せておけばよく人手を煩わすこともない。かくして人と人との関係が人と機械との関係へ移行した。相手が生身の人間でなく、血も肉も通わぬ機械では相手の心情を思いやる必要がなくなり、「惻隠の情」を催す機会もなくなってしまった。
子供にしたって同じこと。僕達の時代は学校から帰ると鞄を投げ出して近所の子供達が集まる広場に駆け付けた。そして日が暮れるまで三角ベースボールや缶蹴りなどをして遊んだものだった。ところが今の子供達は塾に通うこととゲームに熱中することだけで子供同士で遊んでいる姿を見かけることがなくなった。「惻隠の情」を教えても子供達が理解することが不可能になってしまったと言わざるを得ない。
何よりも怖いのは、インターネットに監視カメラやドライブ・レコーダーのお陰で知識と安全を確保した人々が自分が全知全能の神になったかの如き錯覚に陥ることである。そうなると他人の愚行に同情することができなくなる。だからドライブ・レコーダーに映った逆行車を事故も起こしてないのに場合が場合なら大事故になったと非難する。またそれをテレビが面白おかしく報道する。何とも不寛容な時代になったものである。
知識はインターネットの発達により必要に応じてスーパーの棚から商品を選び取るようにして利用する使い捨ての消耗品と相成った。努力を重ねて脳髄に蓄積する必要がなくなり便利と言えば便利だがそれ以上掘り下げて知識を追及する意欲が損なわれてしまった。「石の上にも三年」は死語となり、若い頃よくそう言って詰られた「10年早い」も口にする人がいなくなってしまった。
かくしてインターネットで仕入れたお仕着せの知識を披露するだけの薄っぺらな人々が跋扈する世の中が出現した。専門的な研究に裏打ちされた高邁な意見や、多数の意見に反対する耳に痛い反論を述べる人々は必要とされなくなり、ごく在り来たりの意見でその場を繕うタレントやお笑い芸人が重用される世の中が出現した。
世論の俗化が始まったがそれを批判した者は忽ち報道の世界から締め出される。人々はそんな世の中の風潮に迎合せざるを得なくなり、そこから締め出された人達を慮る余裕を失ってしまった。「惻隠の情」は遠い昔の遺物になり、気が付いた時には我も我もと他人の愚行を論う不寛容な国になっていた、としか言い様がない。
(写真:今年も我が家の庭のライムの木が実を付けた)