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「わからないもの」を「わからないまま」にしておくことが、好き。

贈りもの。名前は、まだない。


受け取ったときはよく分からないもの、というのがある。

昨日大学時代の先生に再会して、いろんなお話をした。
この先生は、わたしにとって「まだなまえのない贈りもの」をしてくださる先生のひとりだ。

コスプレ大先生?

気合いが入るとコスプレして授業に来るその大先生は、音楽家である(サラリーマンにとってのスーツと同じように、先生にとってはそれが勝負服のようなものだから、コスプレとも違う気がする。でもあのこだわりはすごい)。

先生の授業はクラシック音楽作品の解釈に関するものだったのだけど、決してわかりやすいものではない。他の先生のように、丁寧に教授してくれるわけでもない。
「理解できない」と、授業に来なくなった学生も何人か知っている(わたしはというと、「理解できない、けどとりあえず受けよっ」と思っていた)。

授業中には、学生たちの間でたくさんの「?」が飛び交い、
全てのコマを受け終わっても、結局自分が何を学んだのかよく分からない。

こんな授業、あるだろうか?(そして、ありだろうか?)

「ああそうか」を積み重ねて10年

この先生と出会って10年が経ち、分かってきたことがある。

ふとした瞬間に、あの先生の授業を思い出すことがあるのだ。
たとえば、旅先で雪の上をただただ歩いているときとか、そういう何気ない瞬間に。

「ああそうか、あのとき先生が言ってたのは、こういうことかもしれない」

こうして「ああそうか」をなんども積み重ねて、ゆっくりと、あのときの先生の言葉を消化していっている。

「消化していっている」といっても、それは先生の意図した通りではなく、あくまでわたしのやり方で、わたしの解釈で。

「わからないもの」を「わからないまま」にしておくことが好き

今の時代、分かりやすいものは、世の中に溢れている。
答えを知ろうと思えば、すぐに答えを探せる便利な時代だ。

でもわたしは、「わからないもの」をとりあえず「わからないまま」にしておくことも大切だと思っている。

「わからないまま」にしておくことで、何度も何度も、長い時間をかけて考える。

答えのある問いの場合は、何年か経ってから「そろそろ答え合わせしよっかな」とググることもある。この答え合わせの瞬間ほど心の躍るものは、なかなかない。

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