サッカー観て、神社に行きたい! 大特別編「ロアッソ熊本」
ご無沙汰しております。
完結したかのように思われた、こちらのアウェイ遠征おすすめシリーズ(そんなタイトルあったんかい)「サッカー観て、神社に行きたい」・・なんとを沈黙を破って、大特別編「ロアッソ熊本」編!!
実は5月に既に一度、訪れている熊本。
その際はサッカー観戦と練習見学、帰路の船旅がメインだったので神社には立ち寄らずでした。
そして、かちやまの生誕月である10月に再び来訪が決まり、計画を立て、今回は神社を訪れるぞ!ということで・・大特別編のはじまり、はじまり!
実はですね、うちの母が熊本県を代表する有名キャラクターくまモンが大好きで、その母にくまモンのイラスト入りのロアッソ熊本のタオマフをプレゼントしたことが、ロアッソ熊本に親しむことになったきっかけ。
そんな、熊本県ですが「熊本県」となったのは明治4年の廃藩置県によって、爆誕。
熊本の地名は熊本城のあった場所からです。
元々は「隈本」で、おそらく地形を由来にしている説があります。
古城であった隈本城を、かの有名な加藤清正公が改めて築き上げ、完成の際に「熊本城」としたと伝わります。
古代、律令制前は熊本県は「肥国」の一部でした。
後に肥前と肥後と別れ、肥後国となったのです。
肥国は「火国」とも書かれます。上代特殊仮名遣いでは「肥」も「火」も同じ乙種の発音で、意味合いは同じと推測されます。
火の国の由来としては、不知火説もありますが、八代海周辺にいた豪族である火氏由来の説もあります。
火氏は「火君」であり、「君」とは古代の天皇である大王に次ぐ、大きな勢力を持つ豪族の首長の姓であります。古事記には、神武天皇の子、神八井耳命の後裔氏族と記載されております。他にも九州には筑紫君や大分君など、豪族が存在しました。
八代海こと不知火海には、古代、景行天皇が海路で訪れた際に、夜になり暗闇の海上で方向を見失っていたところ、海上に揺らめく明りを見つけ、その方向へ船を進めると、無事に着岸出来た。
翌日、周辺の住民に火の元を尋ねるも、皆「知らない」と答えたことから、その火を「不知火」というようになった伝説があります。(景行記)
現在でも、旧暦の八朔(8月下旬〜9月秋分)の夜、沖合に光が揺らめく現象が起こります。所謂、蜃気楼の一種で、この時期が大潮で干満差が大きいことが起因とされます。(宇土高校の学生さんが研究されたそうです)
一方で巫女による神霊を迎えるための聖なる火ではないか、秘儀とされていたため、知るものがいなかったのではないか、という推測もあります。
そんな古代から豪族のいた火の国、熊本県の一宮は中国の史書(隋書倭国伝)に初めて登場する日本の山である「阿蘇山」(表記は「閼宗山」)の神を祀るとされる神社です。
肥後国の式内社は四座内、三座は阿蘇に所在があります。
阿蘇神社
創建は孝霊9年(紀元前282年)とされる由緒正しき、神社です。
式内社。名神大社。
類聚国史には阿蘇三神として
健磐龍命神社
阿蘇比咩神社
國造神社
三社の記載があり、健磐龍命神社が現在の阿蘇神社だと云われています。
神武天皇の孫神である健磐龍命が主祭神とされ、他にも12柱の神様が祀られています。
健磐龍命は筑紫平定の為に派遣され、阿蘇に下向したとされます。
健磐龍命は、阿蘇山そのものを表した神であるとも言われ、火山信仰=火の神から、熊本平野を潤す豊富な水源を擁することから、水の神=龍神に変化したという説もあります。
他の説話もあり、元々、健磐龍命は阿蘇都彦、そして妻神である阿蘇津姫と合わせて阿蘇の祖神だったとされ、ヤマトの支配下後に神武天皇の孫神とされた健磐龍命と融合したのではとも云われます。
現在の宮司も務める阿蘇家は阿蘇の初代国造の家系であり、政治面と宗教面に於いて阿蘇の取り仕切っていたと云われます。
参道が横に伸びる珍しい形で、北鳥居と南鳥居が正式な入口。
3棟の神殿があり(現在のものは1835〜1850年に建立)、右の神殿は男神が五柱、中の神殿は女神四柱、左の神殿に三柱、祀られております。
社紋は違い鷹の羽。鷹の羽は上等な矢に用いられたと云い、それ故、鷹の羽紋は武威を示すと云います。
重要文化財に指定されている楼門も、重厚感があって非常にかっこいい!
日本三大楼門の一つとされ、九州最大規模の大きさ。拝殿も令和3年に再建されて新しい。
阿蘇神社には阿蘇山の山頂に「阿蘇山上神社」、所謂、奥の院があり、中世には「上宮」と呼ばれ、阿蘇神社は「外宮」と呼ばれていたそうです。
縁結びにご利益があると謂われる「高砂の松」があり、その松を女性は右回りに2周(男性は左回り)すると良いらしい。
世阿弥によって、能にもなった「高砂」の松、拝みたい。
阿蘇神社には76年春2月、卯の日は健磐龍命が阿蘇に来臨されたとして、神楽が奉納されます。
現在は「卯の祭」として、3月初めの卯の日から、次の卯の日までの13日間、毎日、神楽が奉納されます。
現在は行われていませんが、昔は毎月、卯の日に神楽奉納されていたようです。
神社以外にも阿蘇地域は、神楽が盛んでイベントも行われています。
健磐龍命が現れたのが2月(卯の月)、卯は陰陽五行説でいうと、木気。亥・卯・未は、「卯の三合」及び「木の三合」とされ、木気は稲も含まれ五穀豊穣を祈る神楽が奉納される。(卯の象意は「茂る」の意)
木生火の相生の関係もあり、火山である阿蘇山への奉納の意味が伺える。
方角でいうと、卯の方角は「東」であり、阿蘇山が肥後国の東に位置することも関連があるのだろうか。
神仏習合の時代は、山号阿蘇山である天台宗の「西巌殿寺」が神宮寺とされ、天竺から来日した最栄読師が開祖。
九頭の大龍となって現れた健磐龍命のお告げによって、建立されたと云われます。
天台宗の衆徒、真言宗の行者たちによって、修験道が盛んに。
阿蘇山上には奥之院もあり、熊本地震後に再建された本堂は、縁結びのご利益のあるスポットとなっております。
門前商店街で食べ歩きもいいな。
弓削神宮
ロアッソ熊本のホームスタジアム「えがお健康スタジアム」から、車で10分とかからない白川の近くに座する神社。
祭神は孝謙天皇とされ、後堀河天皇の時代の元仁(1224〜1225年)の頃に創建と伝わるが、社伝や宝物などは戦の際に失い、明治時代には火災による被害があり、記録などが焼失し、現在の社伝は大正時代に建造されたもの。
「弓削」の由来は、祭神とされる孝謙天皇の寵臣であった弓削氏出身の僧侶である道鏡に関わる伝説によるとされる。
ただ、道鏡は河内国出身で、後も下野国で死没とされ、九州地方に来たという伝承は見聞きしない。
ちなみに孝謙天皇についても、同様である。
道鏡は女帝である孝謙天皇の寵臣だった為、主従関係とは別に男女関係があったのではないかという伝説があった。
その話は没後、時間を経て平安時代に説話が流布されだし、江戸時代には日本全国に広まっていったようだ。
弓削神宮は湾曲し流れる白川を挟んだ場所にある、上弓削神社と上宮下宮とする対の神社である。
一説には上弓削神社が男性、弓削神宮が女性とされる。所謂、陽と陰。
浦和の回の氷川神社でも述べてあるが、川や水にまつわる神社で男女対とされている神社は他にも存在する。
氾濫を起こす白川を挟んでいることから、治水を司る土着神が祀られていた可能性もある。
対になっていることから、この神社にはたくさんの男性器および、女性器を象ったものが奉納されているのではないか。
特に土着の民間信仰の深い神社は、この神社に限らず、陰陽物を祀る神社は少なくない。
それ故、夫婦和合や浮気封じのご利益、子孫繁栄や、それにつながる五穀豊穣を祈るのではないだろうか。
もしくは、白川の神は水神=龍神=蛇神との関連である。
蛇への信仰は縄文時代からあったとされ、蛇の造形が陽物を連想させることから、祀られるというパターンもある。
それら古来の信仰と、江戸時代に流行った道鏡伝説が、重なったのかと推測する。
歴史の古いものは、様々の事象の積み重ねだ。滲み出る推測、それは伝説だったり噂だったりが織られて伝承になる。
(なんて、真面目に語りましたが、ち◯こ神社って呼んでます。)
社格が高かったり、武家の信仰厚かったりなら文書に残りそうですが、そこに散見はされていないようなので、やはり土着の、地元民に愛されている神社なのではないでしょうか。
てなことで、今回はここまで。
もう、なんか民俗学全開過ぎて、多分、ついてこれないよね…すみません。完全なる自己満足です。
大特別だから!!
まだ!まだまだ!続く、ロアッソ熊本編!!!
次回も!!!!