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日々の暮らしにクラシック音楽を
今回はショパン、夜想曲第二番
動画を再生しながら記事を読み進めていただくと、ロマンティックな雰囲気が演出できてよいだろう。
自己紹介
どうも、私は地図上の冒険と申すものです。
ビジネス(田舎でのものや、論業、農業など)や散歩について興味を持った分野に関するを日常的に投稿しています。
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「ショパン」ときくとあなたは何を想起するだろうか。
私は漫画の「いつもポケットにショパン」を想起する。
漫画のあらすじは以下の通り。
![](https://assets.st-note.com/img/1691881472492-EI7Ndi7QYb.png?width=1200)
幼馴染の須江麻子と緒方季晋は同じピアノ教室に通い、遊ぶ時も一緒という仲。そんなある日、季晋が中学進学と同時にドイツへ留学し、さらに当地で列車事故に遭遇したため音信不通となる。
やがて時が経ち高校生となった麻子は、季晋がすでに日本に帰国していることを知る。再会を喜ぶ麻子だが、季晋は彼女を特別にライバル視して余所余所しく扱う。その変容の背景には共にピアニストであり、友人であり恋敵であった二人の母親の因縁が関わっていることが明らかとなる。心の拠り所を失った麻子はピアノを止めようとするが、音楽教師の松苗によって学生コンクールに向けた奏者に抜擢され、厳しい練習を積むうちに、徐々に才能を開花させていく。
麻子と季晋の関係は、時には近づき、時にはすれ違うなど、依然として芳しいものではなかったが、毎コンに出場することとなり、たがいに練習に取り組む。そんな中、麻子は亡くなっていたものと知らされていた実父・村上稔との出会いや、苦手意識のあった母との交流を通じて、娘を案じる母親の姿に思い至り和解する。
一方、季晋はピアニストとして大成することのなかった母の願いを叶えようと練習に没頭し、それが災いして腱鞘炎を患う。季晋は無理を押して大会に出場するが、演奏直前に麻子から過去の真相を知らされると、それまでの呪縛から解放されたかのように好演を見せる。結果的に麻子は二次予選で落選し、季晋は本選出場を決めるも怪我の状態を考慮して棄権するが、二人の仲が修復されて物語を終える。
ああ、なんてロマンティックな漫画なのだろうか。
ではでは、実在人物のショパンについて調べていこう。
音楽全般に言えることではあるが、特にクラシック音楽が面白い所以は作曲家の謎にあると私は思う。
曲、作曲家について聞き覚えはあるが、具体的に説明できない。
これを検索することで補っていく。
この一連の流れがたまらない。
ショパンとは何者?
![](https://assets.st-note.com/img/1691881505940-cmlkdqB1Wr.png?width=1200)
ショパンは 誕生日は1810年3月1日(1809年3月1日との説もあり)。いつものことながら、クラシック音楽作者の生きた時代は、意外と最近。
ショパンは1810年3月10日にポーランド中部のジェラゾヴァ・ヴォラ村に生まれました。当時のヨーロッパはナポレオン戦争の真っ最中。ポーランドにはナポレオンがつくったワルシャワ大公国がありました。
うひょ~~~。ナポレオンとショパンの組み合わせは強烈だ。
情景を思い浮かべながら曲を聴くと、また違った味が。
ショパン一家は音楽を好み、父の二コラはフルートとヴァイオリン、母のユスティナはピアノを得意としていました。このことから、ショパンは子供のころから音楽に親しむ環境にあったといえます。
ショパンが本格的にピアノを習うのはナポレオン戦争後の1816年~1822年にかけてのこと。チェコ人指導者シヴヌィからピアノの手ほどきを受けます。ピアノを習い始めたショパンはあっという間にジヴヌィの力量を越えてしまいました。なんと、わずか7歳で公開演奏を行っているのです。
ワルシャワ最高のピアニストと称えられるまでに成長したショパンは、芸術の都パリに活動拠点を移しました。1832年の公演で大成功をおさめたショパンはピアノの名手として名声を高め、ヨーロッパ各地から集まる弟子たちに技術を教えることで生計を立てます。
彼は大人数を集めた公演会よりも、貴族や資産家などの私邸で催されるサロンでの演奏を好みました。その理由は彼の体が弱く、小規模な方が体にかかる負担を減らせるからです。
1838年からは文人ジョルジュ・サンドと交際し、彼女の助けを借りながら音楽家としての活動を継続。10年にわたって彼女との交際を続けました。1840年代からショパンは体調を崩すようになり、1849年に亡くなります。享年39歳でした。
では夜想曲について
日本語では夜想曲と訳されますが、ノクターンとは、ラテン語のノクトゥルヌ(nocturnus)という言葉からきたフランス語で、「夜の」という意味です(英語のnocturnalと同義)。. ノクターンとは、アイルランド生まれ、イギリス育ちのピアニストである、ジョン・フィールド(1782〜1837)が初めて作った曲の種類のことです。. フィールドの時代のイギリスは、まさに産業革命の時代。. これにより、新型 ピアノ の製造も盛んになり、ピアノを製作していたクレメンティとともに、ピアノのデモ演奏をするべく、ヨーロッパ中をまわります。. 新型のピアノは、それ以前のピアノよりきれいな弱音や、なめらかな レガート ができるようになりました。
「夜」と聞くと、私がいつも想起してしまう曲がある。
クラシック音楽ではないが…。
テレサ・テン(1953年1月29日 - 1995年5月8日、中華圏で使用された名前は鄧麗君〈デン・リージュン〉)は、台湾出身の歌手。1970年代から1990年代にかけて、中華文化圏全域ないし日本、タイ、マレーシアなども含めたアジアにおいて広く人気を博したその業績から、生前から没後も「アジアの歌姫」と呼ばれている。
父親は中国河北省邯鄲市、母親は中国山東省出身で共に外省人で、また父親は元国民党軍の職業軍人であり、彼女自身、軍隊への慰問活動を熱心に行っていたこともあり、「軍人の恋人」(中国語:軍中情人)というニックネームでも有名。
「ななななんで、台湾の歌手の歌を知っているのだ?」
と疑問に思われた方もいらっしゃるかもしれない。
ははは、映像の世紀パワー恐るべし。
さて、ノクターンに戻ろう。
作曲の経緯
『ノクターン(夜想曲)第2番 変ホ長調 作品9-2』は、ショパンによる1831年作曲のピアノ作品。翌1832年に出版された。
1956年のアメリカ映画『愛情物語』でも用いられ一層人気を博したほか、日本のアニメやゲームにも度々使われ、ショパンのノクターン作品の中でも特に知名度が高い。
数あるショパンのノクターン(夜想曲)の中で、『第1番(作品9-1)』、『第2番(作品9-2)』及び『第3番作(作品9-3)』の3作品は、ほぼ同時期に作曲されたもの。
これら3作品は、プレイエル社の社長カミーユ・プレイエルの夫人マリーに献呈されている。
ここで気になるワードが出現。
「プレイエル社」とは?????
プレイエル ( Pleyel et Cie )は、 フランス の ピアノ 製作会社である。 概要 ピアノ製作会社「プレイエル商会( Pleyel et Cie )」は、 イグナツ・プレイエル とその息子カミーユ( 1788年 - 1855年 、ピアノの名手で 1815年 に父の仕事の共同経営者になった)によって設立された。
せっかくなので最後に、ピアノ有名メーカー名を眺めておこう。