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オタクは、やはり推さざるを得ない


どうして「推そう」と決めたんだっけ?


何かの節目があると、僕はよく考えます。

推しとの出会いを振り返ると、「巡り会ってしまったからには、推さざるを得ない」としか思えないことがよくあります。


しかし、アドラーに言わせれば決してそんなことはありません。


あくまでも僕たちは、「推したくて推している」のです。


やりたくない仕事なんてない


人間は全ての行動を自分で選択している。


これがアドラー心理学の自己決定性です。


以前も紹介した『もしアドラーが上司だったら』という本では、自己決定性に基づけばすべての仕事は「自分がやりたくて」やっていると述べられています。

言われて見ればそんな気もします。
取引先とのメールのやり取りも、煩雑なデータ整理も、やらない方が面倒だからやることを選択しているのです。

そもそも自分の人生は思いのまま、自己決定性に従えば、僕たちはやりたくなくてやっていることなんてありません。


義務感で推してしまうオタクたちへ

仕事にかぎらず、義務感になってないか?ということはつねに注意する必要があります。

例えばオタクをやっていて苦しいのは、「推さない自分には存在価値がない、だから推さなくては」と思ってしまうときです。


そんなときは一度立ち止まって、僕は推しに出会う前も幸せだったじゃないか?と問いかけます。


自分が推してて楽しいから、推しているだけ。
仕事が忙しいならライブに行けないこともあるし、なんだかモチベが上がらないこともある。

そんな「推せない自分を受け入れる」という選択肢も用意しておきたいものです。


大切なのは自分だけ?

このように自己決定性はとても強力な理論ですし、僕もこれを知ってからだいぶ生きるのが楽になりました。


でも、本当にそれでいいの?


と問いかける自分も存在します。
単純に「ライブを見たい」「推したい」「話したい」という気持ちだけに頼ると、それがなくなったときにどうしようもなくなる気がするからです。


これはやらなくてはいけないことを我慢したほうが、後々に自由が効くようになる経験があることも影響しています。

だからときには「そういう運命なのか…」と受け入れる潔さも重要だと考えています。


確かにオタクは「推したくて推している」のかもしれませんが、何かしらの必然性があると思わざるをえません。
大抵の場合、推しの先には次の推しがいて、さらにその先にも推しがいます。

卒業した推しの代わりに、同じグループから新しい推しを見つけることだってあるでしょう。
また、たまたま推しの出る対バンで、出番が1つ前のグループに一目惚れすることだってあるかも知れません。

オタクにはそれぞれ「推さざるを得ない」理由があるのです。


そんな巡り合わせを全て無視して、「自分は推したいから推してるだけ」なんて言うのは無責任に思えてなりません。

僕だけでしょうか?


おわりに

まとめます


「オタクじゃなかったら」なんて仮定は、実はいらない。


以上です。

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