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「正しい母親」とは、誰が決めるのか? #3書評 かがみの孤城

友人にすすめられた1冊、「かがみの孤城」。

私はこの小説を読むのをすごく楽しみにしていた。というのも、本好きの友人がすすめる小説には、ハズレがないからだ。

ウキウキと心を躍らせながら、読みだしたのもつかの間……。

「息ができない」とか、「喉がつまる」とか、そういった感覚を小説で味わったのは初めてだった。

いつもは腑轍して見えた本の世界が、今回ばかりはそうもいかない。

現在と過去と未来を、深く深く、ずーっと深く。考えさせられた。いや、考えずにはいられなかった。

人生の壁にぶち当たるたびに読み返したくなる、そんな小説。





「正しさ」とは、何をもってそれを示すのか?

私は10年と少し前に母親になった。わが子を抱いてわいてきた感情は、「かわいい」、「愛おしい」、そして「正しく母親になろう」だ。

私の思う「正しさ」とは、自分自身はもちろん、誰から見ても善き母親だ。良妻賢母とはいつの時代か、そんな母親が理想であり正しさだと思っていた。

しかし、はじめての育児がそんなに都合よく進むはずもない。あまりにも理想の「正しい母親」とかけ離れた自分に、何度絶望したことか。

「かがみの孤城」の主人公、こころの母親も、「正しさ」を追い求めた1人ではないだろうか。

こころはある出来事がきっかけで居場所をなくし、学校に行けなくなってしまう。

子どもが学校に行けなくなったら、親はどうしたらいいのか、わからなくなるだろう。ゆらゆらと揺れる感情が、抑えようにも抑えられない。

「見せてはいけない」とわかっていても、振る舞い1つ、言葉1つに、少しずつにじみでる。それが、無意識に子どもを傷つける。

そんな自分に嫌気がさして、自分自身を責めるだろう。正しい道筋はどこかと必死に探しては、また絶望を繰り返す。

こころの母親にも、そんな葛藤が見て取れる。

でも、大事なのは、そんなことじゃない。子どもの前で「完璧」を演じることが、正しさではない。少なくとも、私はそう思う。

逃げてはいけない場面で、絶対に逃げないこと。そして、大人のズルさを盾にせず、目の前の子どもと向き合うこと。

それは必ずしも完璧ではないし、いつも正しいとは限らない。ただ、完璧で正しい母親よりも、子どもにとっての正解をいっしょに見つけていく。そんな姿勢を見せることが、「正しい」のだと思う。

私は過去に、いじめにあっていたことを母に隠した。何十年もたってから、きちんと話をしていればよかったと後悔している。

きっと、正義を振りかざした完璧ではなく、いっしょに悩んで背中をさすってくれただろう。その温かさに、ふれてみたかった。

過去にはもう戻れないけれど、私には現在と未来がある。

10年と少し前に生まれたわが子は、私がいじめにあった年齢と同じ年になった。先のことはわからないけれど、子どもが発するSOSを見逃さないように、注意深く見守っていきたい。

私は、「正しい母親」になんてなれない。なる必要もないと思う。

かっこ悪くても、泥臭くても、子どもと同じ目線で。いっしょに迷いながら、正解を見つけていく。

こころの母親のように、ここぞというときに力になれる。そんな母親になりたいと思う。



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