猫は棄てない なにかを洗う 【村上春樹「猫を棄てる」感想】
西宮市の夙川近くに3年ほど住んでいたことがあります。
春には桜が水面に映える、美しい川です。
村上さんが自転車の後ろに乗って、お父さんと海まで猫を捨てに行ったという川沿いの道を、私も子どもを乗せて何度も自転車で通りました。
そうか、あの風の気持ちいい素敵な道を、村上少年は猫を抱えて海に向かったのか。
思い出というのは、不思議ですね。
日常のありふれた光景のうち、どれが生涯の思い出となるかなんて、誰にもわからないし選ぶこともできません。出来事の重要度や好き嫌いを超えた、なにか、特別な法則が、記憶に焼き付けるのでしょうか。
「猫を棄てる」という日常の出来事が不思議な法則に選ばれ、生涯の思い出に残ったという偶然。それは、お父さんが戦争から生き延び、不思議な縁でお母さんと出会ったのと、もしかしたら同じ法則によるものかもしれませんね。
「ささやかなものごとの限りない集積」がパズルのように人を作り、「無数の仮説」の中から「たったひとつの冷厳な現実」がもたらされる。そしてそれが「次の世代に否応なく持ち運ばれていく」。
人は、人生は、歴史は、そうした人知を超えた不思議なシステムによって成り立っているのでしょうか。
私の話をさせてください。
私も、数年前に父を亡くしました。
在宅で4年ほど介護をしていましたが、私は良い介護者であったのか。
いつも気持ちよく接することばかりではありませんでした。
疲れたり面倒に思ったりすることも多々ありました。
3人の子の世話で手いっぱいになり、父に邪険に接してしまう日もありました。
もっと優しく丁寧に接すれば良かった。
もっとたくさん話を聞いてあげられたら良かった。
それは仕方のなかったこと、となだめても、
後悔は私のそばにこの先もずっとあるでしょう。
けれどそんな思いとは別に、私にも奇妙に印象的な思い出があるのです。
微熱が続き、父の体調が優れないことがありました。
食欲もなく水も飲まず、ただただ弱々しく眠る父を心配しておりましたら、あるとき不意に気がついて、はっきりと不思議な夢の話をし始めたのです。
「ああ。今あんたはいいことしたよ。
あんたがうえで洗濯してくれたあぶくが、いっぱいしたに落ちてきてね。
真っ白いあぶくが、虹みたいに光って。
すごくきれいなんだよ、たくさん、雲みたいにいっぱいいっぱい。
こっちの人たちも、みんなあぶくに感謝しているんだよ。
とってもいいことしたねぇ。ありがとう」 と。
目をつぶったまま、にこやかにお礼を言われました。
父の中で私は、一体どこにいたというのでしょうか。
「うえ」って? もしかして天国的な?
そこで私は、なにを洗っていたんでしょう。
私がどこでなにを洗ってたのか、あとで父に聞いてもわかりませんでした。
でもそのとき、その白くてきれいで虹に輝く世界で、
私は確かになにかをきれいにしていたようなんです。
「猫を棄てる」を読んで私が思い出したのは、
そんな個人的な、たわいもない思い出でした。
父本人さえ覚えていなかった、単なる熱に浮かされた夢の話です。
あの頃の自分のことを肯定したいだけかもしれません。
でもこのささやかな思い出が、現在の私を作っている小さなかけらのひとつになっている。
今では、父こそが空でなにかを洗っていて、ときどききれいなあぶくを落としてくれるように思います。
私の、「猫を棄てる」ならぬ「なにかを洗う」思い出です。
猫は棄てませんでした。
戻ってきた猫と、ほっとしたお父さんは、20数年の空白を超えて村上少年の心に不思議に強く留まりました。
そして、運んで、伝えて、引き継いでいく。
大丈夫。村上さんは猫を棄てていませんし、私もなにかを洗います。
【6/12追記】文藝春秋BOOKS特設サイトにて、この感想文が掲載されました。