
被害者=期待者
前回「新たなENTPへの気付き」の記事でコーチングセッションを受けた時の当事者としての心情を語らせてもらったのですが、
実はその後すぐに、録画してもらっていたそのセッション動画を見返していたんです。
すると、リアルタイムでは当事者として複雑に感じていたにも関わらず、
改めて僕と相手が話してるのを見て「普通にちゃんとやりとりしてるだけだな・・・」と感じたんです。観察している第3者として。
セッション中の当事者である自分は、その人とのセッションに対して内容の濃さや気付きを得れたかみたいな部分に大いに期待をしていた分、終わった時もやもやを感じていました。
けれど僕と相手が話をしているその80分間、見返すと全く不自然なやり取りはなく、特別相手が冷たいわけでも大きく逸れたことを言ってるわけでもなく。
本当になんでもないな という感想を持ったんです。
ここからなにを学んだかというと
人はその時々のコンディション・勝手に自分が持ってる前提・相手への期待感などで受け取り方や感情の動きが大きく変わってしまう
ということ。
何言ってんの。当たり前やん 人ってそんなもんだろうよ と思われたかもしれません。
しかし自分にとってはここまで第3者としておのれを冷静に見返す機会を得たのは初めてだったんです。
セッションの時、僕の受け取り方を狂わせていたのは『期待』だったのです。
まさに、ちょっと前の記事で私自身が偉そうに
幸福=起きた喜ばしい出来事ー期待
と、本から得た知識として公式を提示したにも関わらずですよ。
めでたく自分を実験体として公式が鮮やかに証明されました(笑)
期待をしていた分だけ、落胆する。
期待をしていた分だけ、喜びが目減りする。
それが一見当たり前であってもなお、振り回されるものなんですね。
被害者を演じている時、人は「期待者」でもあるんだなと。
けれど当事者は自分が「被害者」を演じてることも「期待者」であることも気付いていない。
アイタタタタ。すぐ期待しちゃう自分かわいいけどイタいな(笑)
被害者ぶるでいうと、
すごく分かりやすい例がクレーマーですよね。
クレーマーがクレーマーと言われる所以は、「過度な期待をサービス提供者に対してしている」ところですよね。
まさに期待者は被害者(自演)になると。
期待を持ちすぎることは、
自分を被害者にしたてやすくなり、
それをみた第3者を不快にさせ、
自身も相手も第3者もちょっと不幸にすることなんだなと。。。
反省しました。反省はしたんですが・・・!!!
問題はここからで、
「期待」ってどうやったらコントロール出来るのかな??
ここです。ここがまだ熟達してない自覚がバリバリにありまして。
きっと問題提起がここまではっきり出来たのだから1年後とかには期待のコントロールが出来る自分にはなってると思うのですが、今は人に自信満々に提示出来る答えは持っていません。
私の場合、期待しやすいことがはっきり分かってるタイミングがあります。
それは「新しい出来事、新しい出会い」です。
新しい環境や人、物事に対して、最初期待しちゃんですよねどうしても。
それはきっと、現状に不満があるのが常だったところからたぶん来ていて。
「いまが不満だからこそ、新しい環境や人や出来事は嬉しいイベントであってくれ!!!」という気持ちが強く出るんですよね・・・分かってくれる人います?(笑)
あるがままをそのまま受け入れる というのがやはりタイプ的にどうも得意な方ではないようです。受け身の取り方・受け流し方や包含・包摂してしまうという流派の出身ではないようです。
我ながらおこがましい性質というか・・・(笑)
ただそれでも、文句だけを垂れずにちゃんとセッションを見返したからこその気付きをこうやって得れましたし、気付きを得れたことは確実に大きな成長への一歩ですから。
これを見なかったことにはしたくないわけです! 活かしがい、伸びしろが半端ないわけです。
一応自己理解のコーチにもこういうことがあったことを相談してみたら、いろいろ参考意見を応えてくれました。
・期待や予想を自分の想定範囲に収めたい(コントロールしたい)という気持ちがあるんじゃないか
・自分の捉え方・解釈は変えられる。
・他人は変えられない。コントロールは出来ない。けれども自分は100%コントロールが出来る。
・自分がコントロールできる範疇だけに100%集中するといい
・最終ゴールを常に決めておく。例えば「どういう経路を辿っても、最終的に心地よく着地する方が良いに決まってるから、心地よく着地させると決める」
・何が起きても「心地よく着地させる」のが破れないゴールなのだから、起きた出来事や感情に対して「どう解釈をすれば」心地よい着地になるか を徹底考えるようにする。
上記アドバイスも踏まえて、
時系列的には①物事が起こる前 と②起こった後 の2段階で対策が出来ると思いました!
今回のボクの事例に関しては②が成功した形ですね。
①で出来ること
⇒これから起こることに「事前に期待を持ちすぎない」「あえて最悪を想定しておく」「自分が出来うる範囲のことさえ出来ればOKと腹をくくっておく」など
②で出来ること
⇒出来事が起こった後に「期待を持ちすぎていた疑惑はないか?と内省する」「起こったことの中にも良かったことや未来に向けてそう解釈できる要素があったはずと探す」「最終的にはどうあっても心地よく着地すると固く決める。そう着地出来るように感情や解釈を編集する」
編集という文字を太くしたのは、
誰にでも過去を編集する能力があることを強調したかったからです。
一見難しく感じそうですよね。とある出来事に対してその時感じた感情や解釈に編集をするって。
でもみなさん、実はもう日常的にやってるんですよね。
都合の悪いことを忘れているのもそうだし、起きたことに対して「悲観を強めに付け足して」記憶していたり。すでに過去の記憶は編集しまくってるのです。
それを「楽観強めに」書き換えて編集することも、「笑い話」に編集することも同じように可能です。これは意識して訓練はしていくものにはなるかもですが!
そのためにどうすればいいかという事に関しても、やはり「決めること」なんだと思います。
どうしても過去起きたことが辛い。それを引きずってずっとどんよりしている。そういう場合であっても、手が付けやすい軽いものから「最終的には心地よく着地させるように解釈を変える」。
その時大事なのは「その当時の自分を癒す」目線で考えることだとも思いました。
今回の私のであれば(軽くて恐縮ですが)「すぐ期待しちゃって自滅するなんてかわいいよな」という語り掛けは必ず盛り込みたい。
自分を責めずに受け入れることです。編集者は自分のみですから、自分が自分を受け入れてあげるところが本当のスタートのように思います。
・・・今回は期待者=被害者(自演)がメインだったので、
過去の辛い記憶を編集するに関しては薄く触れましたが深く書ききれないので一旦ここまでにしておきます。
腕を上げ磨きがかかり確信をもって役に立てられそうな時にまた触れます!
おやすみなさい!