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vol.98 太宰治「きりぎりす」を読んで

十九の春にお見合いして、二十四になった「私」は、「おわかれ致します。あなたは、嘘ばかりついていました。・・・」と、夫に対して別れの手紙を書く。その5年間の結婚生活を告白する。

あらすじ
夫は売れない画家だった。結婚当初は、貧しくてもお金には執着せず、好きな画を書いて、細々と暮らしていた。妻も、そんな生活を苦にもせず、むしろ、貧しいことを楽しみながら生活していた。
結婚3年目の頃から、徐々に夫の画が売れ出し、お金も入ってくる。それに合わせて、夫は人付き合いも派手になり、態度振る舞いも、妻にとっては、「正しくない生き方」になっていく。世間の評価の孤高や清貧の画家とは、ほど遠い実態に甚だ妻は嫌になる。(あらすじおわり)

結婚当初は、清く正しく美しくを、二人で細々と楽しんでいた。お金がない暮らしは、「自分のありったけの力を、ためす事が出来て、とても張り合いがありました」と妻は感じている。

しかし、夫が社会的成功を得て、なんでも欲しいものが買えるようになってからは、「楽しいことが何にもなくなってしまいました。私の、腕の振るいどころが無くなりました」となっている。

妻のこの感情はどこから来るのだろうか。

反俗精神のような気高い意識よりも、利己主義から出た「おわかれ致します…」となっているだけではないのか。変わっていく夫と話し合うこともなく、離縁状を一方的に突きつける。挙句に「あなたは、気違いです」とまで言い放ち、去っていく。

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夫からしてみれば、信念を曲げて、画風を変えたわけでもなく、個展をきっかけに世間から評価を受け、新たな人間関係の中で、結果としてお金も入ってくる。

もちろん妻の離縁の理由は、清貧な生活ができなくなったからではなく、夫の振る舞いが俗っぽくなってしまったからなのだろう。しかし、そうなってしまったのは、高額のお金がきっかけだった。

太宰はこの作品を振り返り、「当時初めて原稿で高額のお金が入り、『原稿商人』になってしまうのではないかという心配のあまり、自戒の意味でこんな小説を書いた」という解説があった。

そこで、あえてお金について考えてみた。

現代に生きる僕はもう、お金で得られる「物質的な豊かさ」に価値を感じない。それよりも、人に感謝されたり、社会の課題に取り組んだり、文化的な余暇を楽しむ時間を持ったり、そういう生き方に価値を感じる。それを得るためには、必ずお金が必要というわけでもない。

ただ、お金に余裕がなければ、人間関係も殺伐となりがちで、人にも優しくでいない心が人間には潜んでいるようにも思う。

僕の生き方からすると、人に迷惑をかけない程度のお金は必要だけど、富はいらない、ということになる。

きれいごとではなく、「縁の下で鳴いている小さなきりぎりすを、かすかな声を、一生忘れずに、背骨にしまって生きていこう」という、妻の「私」が感じている人間の誇りのようなものを大切にしたい。

おわり

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