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vol.97 太宰治「燈籠」を読んで

世間の視線なんか、もう気にしない。次の夏には堂々と薄化粧して縁日の人ごみを歩きたい。

女性の語り手によるモノローグ形式のこの小説、絶望の中から明るさを見出す生き生きとした女性が描かれていた。

あらすじ
語り手は、24歳の下駄屋の一人娘、「さき子」。「私は、人を頼らない、私の話を信じる人は、信じるがいい」と、この心境に至るまでを告白する。「さき子」はお嫁には縁遠いながらも、両親をずっといたわっていた。ある日、水野という、5つ下の商業学校の生徒と知り合う。その水野のために、海水着を一枚盗んでしまう。すぐに見つかり交番に連れて行かれる。なんとか罪を逃れようと弁解する。しかし、その日の夕刊に「万引きにも三分の理、変質の左翼少女とうとうと美辞麗句」という記事が載った。近所の人たちから覗き見され店を閉める。好意を寄せていた水野からも冷たい手紙が届く。
気が滅入りながらも、電球を替えた明るい電燈のもとで親子3人夕食を食べる。このつつましい時間に、「ずいぶんきれいな走馬燈のような気がして、ああ、覗くなら覗け、私たち親子は美しいのだ」と静かなよろこびが「さき子」の胸に込み上げて来る。(あらすじおわり)

これが書かれた昭和12年前後、太宰自身の実生活上、他者から見放され、裏切られたという思いを強く持っていた時期だという、解説があった。当時の心境を映した作品だと思った。

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「さき子」から、現代を考えた。

生まれ育った家の環境、それで生き方が決められていること。貧困と教育の相関。家庭事情により「日陰者あつかひ」にされる生きにくさ。「世間の冷たさ」を受け入れて生きていく。皮肉にもそれが「家族の団らん」を深めている。

今でも、似たような環境を感じることがある。共に生きる社会を目指すとしながらも、格差は「仕方のないこと」としているようにも思う。自助、共助、公助の順は、まだ限定的であってほしいなぁとも思う。社会の意識は80年前とどう変わったのだろうか・・・。

読書感想が少しずれてしまいました。

もうすぐ今年も終わります。来年は、興味深く感じれば、現代文学にも挑戦したいと思います。文学から社会を覗きながら、感じたことをあるがままに書いてまいります。

2021年もどうぞよろしくお願いいたします。

おわり

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