エッセイ◆火の鳥と手放すことの難しさ◆
今回は、あの手塚治虫の「火の鳥」ではなくて、松谷みよ子の創作童話「まえがみ太郎」に出てくる火の鳥の話。
わたしはこの童話を幼稚園年長の頃に本で読んだのだけど(函入ハードカバーだったと記憶している)アニメにもなっていたことを後日知った。
以下のあらすじは、その『NIPPON ANIMATION』のストーリー紹介より少し長くなるが引用させていただいた。
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大晦日の夜、行き倒れた旅人を救った老夫婦は、翌日の元旦の朝、赤子を山の麓で拾う。それは旅人の正体である“お正月さん”が心優しき夫婦に託した神の子だった。やがて子ども成長し“まえがみ太郎”と名づけられた。ある時村に粉塵を噴き上げるドードー山に分け入った太郎。そこには火の鳥がおり、自分が再び飛び立つために必要な“なにか”を、太郎に探してくれるように願う。
『NIPPON ANIMATION』のアニメ「まえがみ太郎」ストーリー紹介より引用
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この「まえがみ太郎」という話は少年の冒険譚であると同時に、この火の鳥が何故、飛び立てずにいるのか? 再び飛び立つ為に必要なものは何なのか? ということが大きなひとつの芯としてある様に思う。
少しネタバレになってしまうことを、お許しいただきたいが、実は火の鳥が、再び飛び立てる様になる為の『なにか』は一つではない。
手に入れるのでは無く、反対に手放さねばならないものがあるのだ。
まえがみ太郎は苦労の末『なにか』の一つを手に入れることに成功する。
火の鳥は歓喜して、太郎も喜び、これで飛び立てると思うが、それだけでは飛び立つことは出来なかった。
火の鳥と太郎の失望。
けれど、考えてみれば、火の鳥はここでは、まだ気づいていない。あくまでも他力本願で上手くいかなかったと嘆くばかりだし、太郎を責めすらする。
そして、最後に色々と試し考えていくうちに、飛べなくなった訳に気がつく。
それが必要な『なにか』の、あとひとつ。
手放さなければならないもの。
わたしは子供の時に不思議でならなかった。
火の鳥はどうして、”それ”にそんなに執着するのだろう、手放してしまえばいいのに。
でも、歳を重ねてくるにしたがって、火の鳥の気持ち、苦悩が身に沁みてわかってきた。
大人になるにしたがって、簡単に手放せないものはどんどん増えてくる。
それを欲や執着と呼ぶのは簡単だけれど、それだけではない『大切な代え難いがたいもの』だってある。
作中の火の鳥は最後に”それ”を手放すことを選び、再び飛び立っていく。
その姿はまさに解放と自由をあらわしていて、昇華された姿は美しい。
美しいのだけれど、わたしは子供の頃の様に、その姿を無心に讃えられない。
それほどに、大切なものを手放すことは難しいからだ。
モノだけではない。
世の中には、たとえ飛べなくなっても手放すことができないもの、どれだけ空を恋慕おうとも引き換えにしても守りたいものというのはあって。
だから、手放すことがどうしても出来ぬ火の鳥たちは、引き裂かれる想いに、ただ哭くのだと思う。
自ら、空ではなく、それを選んだことを悔いるわけではないけれど。
わたし達は、そうして羽をボロボロにしてしまった火の鳥。
飛ばないことを選んだ、火の鳥。
「いつかこんな冬の終わりに─心象風景の欠片たち─」つきの より
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