『モモ』:結局、食洗器は買っていない
『&Premium』の「あの人が、もう一度読みたい本。」(2019年10月号)をぱらぱらと見ていたら、ミヒャエル・エンデの『モモ』が挙げられていて、ふと本棚から引っ張り出してきたので、これはそんな話。
ちょうどお題箱に「好きな児童文学/絵本」というテーマを頂いたところだった。ところっていうか、もう1週間前だけど。そういう感じのゆるいノリでお願いします。このテーマはたぶん、遠い記憶を掘り返すといい感じのものがザクザク出て来るやつで、児童文学だけじゃなくて絵本についても色々喋りたいけど、長くなりそうなのでそれはまた今度に撮っておこうかと思う。
『モモ』は、奪われた時間を取り戻す女の子のお話だけれど、読むたび深く考えさせられ、結局はどうすればいいのかわからない、みたいな気持ちが年々強くなっている本だったりする。何しろ私めちゃくちゃせっかちで、「今日は休みだからゆっくりするぞ!カフェで読書したり小説書いたりするぞ!ついでに布団も干すし洗濯もするし料理の作り置きもするぞ!」みたいな。ゆっくりしてないよそれ。圧倒的にリソースに対してやりたいことが多すぎるのは悪いことではないけれど(暇よりは、というくらいの意味で)、それはそれとして時間がなくて(以下ループ)。
ところで話は変わるのだけれど、しばらく前、案外周囲の人々が食洗器を導入していることを知って、うちの人に打診してみたことがあったことをふと思い出した。そのときは「ま、いっか」って感じで保留になったのだけれど、しばらくしてジョーシンに行った時に、うちの人がTVスピーカーなるものを見ていて、なるほどな、と思ったことを今、ふと。TVスピーカーというのは、テレビの音だけを別のところで聞けるようにするスピーカーで、そんなもんあるんだな世界は広いぜジョニー、って感じの代物だったりする。キッチンで作業をしていると、TV画面は見えるけれども、作業音で音声などが聞こえないので、それを解消してしまおうという発想だったもよう。作業を「はやく終わらせる」とか「省略する」とかではなく「楽しく終わらせればいいじゃん」てことか。それは新しいな、ジョニー。
私は何しろ短気でせっかちなので、ともかく時間が無駄になることが一番嫌いで、時間にルーズな人とは合わず、手持ち無沙汰になるととたんに不機嫌になるという困った人間なのだけれど、これを書きながら、どうやら時間というものについて、「どう使うか」から、「どう捉えるか」にシフトするときがきているらしい、と気づいたので、これはそんなメモだったのかもしれない。文章の行方が分からないままにここまで書いてしまった。
『モモ』に繰り返し登場する「じぶんのじかん」という言葉についても、もしかしたら、今まで考えていた意味とは違うのかもしれない。意外と長くなったので、この話はまたどこかで蒸し返すかもしれません。
人間はじぶんの時間をどうするかは、じぶんじしんできめなくてはならないからだよ。だから時間を盗まれないように守ることだって、じぶんでやらなくてはいけない。(p211)
人間というものは、ひとりひとりがそれぞれのじぶんの時間を持っている。そしてこの時間は、ほんとうにじぶんのものであるあいだだけ、生きた時間でいられるのだよ。(p201)
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