2024年3月に観た舞台①

世田谷パブリックシアター『う蝕』 @シアタートラム

「脚本の横山拓也、脂が乗ってる」と、まず感じた。

 大きな災禍が起きた直後の小さな島らしき場所に、主に仕事で集まった男性6人の会話劇で、登場人物の約半分がすでに死んでいるんだけど、それが明かされるまでのせりふの軽さが絶妙だった。絶妙というのは、死んでいるとわかってから思い返すと、切なさや悲惨さや優しさや無常感など、いくつもの解釈が乱反射するような言葉が選ばれていたから。ちなみに私の横山戯曲を毎回絶賛しているわけではない。

 もちろんそれらのせりふを生かすも殺すも演技、演出にかかってくるわけだが、その点でも素晴らしかった。「腑に落ちる」という言葉があるけれど、最初のシーンの近藤公園と坂東龍汰の発話で、せりふが腑(内臓)から出ている=柔らかく肉体化されているのが伝わってきて、これはきっと良い稽古を重ねた良い作品だろうと期待が高まり、それは最後まで裏切られなかった。そのふたりのみならず、参加したどの俳優にとっても、今後仕事を続けていく時に大きな座標になるぐらいの充実した時間ではなかったかと想像する。

 終演後、偶然、演出の瀬戸山美咲と話すことができ、上記の感想を伝えたところ、昨年のうちに完成していた横山の戯曲が、1月1日の能登半島の地震とあまりにシンクロしてしまったこともあり(実際にわずかながら書き直しがあったという)、通常の公演よりも丁寧に座組でディスカッションをしたし、集まったメンバーが意見をどんどん出すタイプの人たちだったという話が返ってきた。

 ところでこの公演は早々に前売りが完売し、追加公演が実施されたのだが、その要因は若い出演者の券売力によるところが大きいらしい。恥ずかしながら私は、綱啓永(と書いて、つな・けいとと読むこともパンフレットで知った)も坂東も、この舞台で初めて認識した。どちらも舞台経験は少なく、また、数年ぶりの舞台出演だったそうだが、顔が小さくてシュッとした立ち姿の若い人たちは、共演のベテランと比べて遜色なく、ずっとそこにいたように存在していた。この先もこの作品の経験がちゃんと生かされる仕事が続くと良いなと、老婆心ながら願う。

 そして書き忘れてはいけないのが堀尾幸男の美術。荒れ果てて足元の危険な場所と、そうでない場所の区別を、一枚の布を敷く、それをはがす、というワンアクションで表すアイディアに惚れ惚れしてしまった。こんな軽やかで鮮やかな美術をつくる日本の舞台美術界の大重鎮、背中はまだまだ大きい。



赤堀雅秋プロデュース『ボイラーマン』 @本多劇場

 あちこちから風に運ばれて、小さな行き止まりに集まった木の葉のような人たちの、進んでも戻る、家はあっても帰らない、一緒にいても関係が深まらない、つまり何も生み出さない時間を、場所を変えず、ほぼリアルタイムで、演劇の約束事の中でどれだけ描けるか、という挑戦だったと思う。

 その点ではかなり健闘していて、言葉としては矛盾するようだが、豊かな無為が立ち上がった時間も確かにあったのだけれど、終盤、でんでんと田中哲司が交わす、落ちている財布を巡るやりとりは完全に蛇足で、それまでの話の中ででんでんに見せ場をつくれなかった劇作家の苦肉の策としか思えなかった。

 物語のためのせりふでなく、出演俳優へのエクスキュース的(せっかく出てくれたのにストーリーと有機的に絡む良いシーンが書けなかったことへの申し訳なさから生まれた)なせりふと感じてしまったのは、井上向日葵演じる新興宗教の若い信者が唐突に喋り出す、宇宙に関する長ぜりふも同様だった。そしてその世界観は、赤堀の過去作『神の子』を思い出させた。同じ人が書いているのでそれが悪いというわけでは全然ないけれど、その選択に消極的なものを感じたのは事実だ。

 もうひとつ、物語の中で人々の不安を煽り、実際に火事のシーンも出てくる、かなり重要な連続放火事件があるのだが、その犯人を、コンビニでアルバイトをする外国人に設定したのはなぜだったのだろう。日本の閉塞的な空気、日本人の差別意識がその人を追い詰めた、という流れになるのかと待っていたのだが、なんの説明のないまま終わってしまい、飲み込めないざらつきが残った。



文学座 アトリエ公演『アンドーラ 十二場からなる戯曲』 @文学座アトリエ

 スイスの作家、マックス・フリッシュによる戯曲で、タイトルとなっている架空の国を舞台に、2本の恐ろしいラインが徐々に重なり交わっていく様子が描かれる。

 ひとつは、国民が口々に「こんなに素晴らしい国はない」と自慢するアンドーラが、かねてから互いに良くない感情を抱く隣国との関係を悪化させ、戦争へと向かう線。もう少し詳しく書くと、隣国に侵攻される過程で、我が身可愛さで国民同士が早々に裏切り合い、また、俗悪なシンパシーでつながわって特定の人間を排除する姿。そしてもうひとつは、差別がどうやって生まれるかを、差別される側に立たされた人間の立場から描く線。主人公の青年アンドリは、ユダヤ人だという理由で周囲から差別を受け続け、最初のうちは毅然と抵抗を続けるものの、差別の内容があまりに理不尽であるがゆえに、次第に、自分の中に差別されて然るべき理由があるはずだと考えるようになる。物語の途中で、彼は本当はユダヤ人ではないと明かされるのだが、その時すでにアンドリは、自分の行動、思考のすべてに“ユダヤ人ぽさ”を見出していて、差別を受ける立場をかたくなに譲らなくなる。差別や虐待があまりにも理不尽だと、それを受ける人はやがて、外でなく内に理由を求めて起きていることの整合性を取ろうとする。これは、たとえばネグレクトでもよくある話で、アンドリが自滅に向かう激しさとスピードは、ひっくり返せば、彼の受けた仕打ちがどれだけ酷いものかという証だ。

 このアンドリに、20代の女性である小石川桃子をキャスティングした点に、演出の西本由香の慧眼があった。アンドリにつらく当たる兵士、雇い主、同僚、近所の宿屋の主人、神父、医者らがすべて男性であり、アンドリの悲劇の元凶をつくり出したのが父親である中で、小石川はやはり異物、非力な者として映り、アンドリの抵抗が最初から悲劇的だと観客に直感させた。小石川も、次々と希望を剥ぎ取られ、遂には差別される理由をアイデンティティとして固い鎧にするしかなくなった若者を丁寧に演じていた。

 ただ、二幕の市民のキャラクターの変容が極端過ぎて、戯曲上はそうであったとしても、もう少し軟着陸する方法があったのではないかと不満を感じた。また、アンドリの父親と生みの母役の俳優がどちらも、外見も仕草や発声などの演技も30代前半にしか見えず、どういう意図でそうしたのか、最後まで理由がわからなかった。



演劇ユニット犬猫会 リーディング公演『死と乙女』 @中野RAFT

 俳優・劇作家の山下智代と、文学座所属でもある演出家・水野玲子によるユニットに初めて出かけた。『死と乙女』は、シス・カンパニーがプロデュースした舞台(演出:小川絵梨子、出演:宮沢りえ、堤真一、段田安則、翻訳:浦辺千鶴)を観ているが、犬猫会バージョンは飯島みどりによる新訳の初上演で、出演は山下、寿寿、林田一高(文学座)、そして音楽とピアノ等の演奏が後藤浩明。

  1970年代から1990年まで軍事独裁政権が続いたチリをモデルにした国で、時の権力側に拉致・監禁され、激しい拷問を受けながらも仲間の名前を漏らすことなく生き延びた女性パウリナと、民主政権となった今、期待の弁護士として活躍し、旧政権の罪を査問する委員会のメンバーにも選ばれたそのパートナーのヘラルド、彼が車の故障で立ち往生していたのを助けてくれた医者で、パウリナがその声を聞き、今も深くトラウマが残る恐怖を自分に焼き付けた張本人だと確信したロベルトの3人による会話劇。拷問の間、パウリナは目隠しされていたこともあり、『薮の中』のごとく誰の話が本当か、また、正義とは何か、さらに、人間にとって記憶とは何かを、包帯を解き、絆創膏を剥がし、傷口を開けて手を入れていくように、痛みを伴いながら深部に迫っていく。

 この物語に接するのが2度目だから、という理由だけではない発見があって、その理由を考えて思い当たったのが、リーディング公演ゆえにト書きが読まれたことだった。
 ト書きを読んだのがパウリナ役の山下で、その語り口がスピーディかつ、感情を抑えた冷静でもあったため、彼女のキャラクターに、過去におびえ続ける弱さよりも、それに決着をつけたいという強さが浮上した。その結果、ヘラルドが、妻に優しく接しているようで実は非人間扱いしていること(『人形の家』のノラの夫・ヘルメルのごとく)、また、パウリナが捕まっている間に浮気していた過去といまだに向き合っていないことなどが目立ち、こんな男がもてはやされる新政権が果たして本当に民主的なのか、という皮肉な問いを強く感じた。
 その結果、『死と乙女』が演奏されるコンサートでパウリナとロベルトが再会するラストシーンで、ヘラルドを遠くに置いた場所でふたりが新たな関係を結ぶのではないか、という可能性を感じて戦慄した。なぜならそれは禁じられた恋という甘ったるいロマンスなどではなくて、民主主義が浮かれている間に、今は身を潜めている独裁者と、新政権に絶望した革命家が手を組んだら……という可能性を示しているように感じられたから。
 それにしても文学座の演出部、女性が頑張っているな。

付け足しのようになってしまうが、後藤の音楽もとても良かった。優れた音楽、音効はリーディングの強い味方だ。

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