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これはローラの物語。新国立劇場イヴォ・ヴァン・ホーヴェの『ガラスの動物園』

終わってみれば完全にローラの物語だった。

前半、物語は早送りのように進む。まさかイヴォ・ヴァン・ホーヴェが、スピーディに話を運ぶことがアップデートという浅薄な考えを持ってはいないだろうと思いはしたものの、それにしてもスピード以外に引っかかる演出が見当たらないのだ。

いや、美術には明確な主張がある。色調は全体に茶色、空間の設えは地下に掘られた穴ぐら、巣を思わせるもので、正面下手(しもて)側にキッチンはあるものの、生活感を感じさせるのは壁にはめ込まれた冷蔵庫ぐらいだ(冷蔵庫は大人の身長ほどある大型でセピアピンクのような色をしており、茶色以外の色が施されているほとんど唯一の小道具だから、間違いなく重要な意味が込められているはずだが、ここではひとまず置く)。

さらに美術で言えば、私が驚いたのはテーブルが置かれていなかったことで、冒頭のトムの独白が終わって、彼が追憶の時間の中に入ってすぐに始まるシーン、母親のアマンダがトムに向かって浴びせる最初のマシンガントークが展開される食卓は、アマンダの強烈なキャラクターとトムの不満と境遇、ふたりをとりなす姉ローラの性格と家族の中での役割、一家の生活ぶりなどが一気に、そして自然に理解できる重要なシーンなので、それが展開されるテーブルがなおざりにされていることに大きな違和感を抱いたのだ。

他の多くの上演で入念に用意される外階段も無し。一家が住む古アパートと外界をつなぐ階段は正面中央の壁に開けられた──屈まなければ出入りできないし、全体がどれくらいあるのか客席からは見えないほど小さな──穴の先にあることになっている。

そうした大胆な新機軸はあるけれども、リズムの無い運びに違和感は募る。トムの独白もアマンダへの反抗も、イザベル・ユペールの歌うような早口に重さを削がれる。そもそもアマンダは通常、演じ甲斐のある役として知られる。作者の母がモデルと言われるだけあってディテールが細かく、解釈の幅が広い。けれどもこの演出では、人生のハイライトだった南部時代を語る時の感情──そこから浮かび上がる強い少女性や、目の前の現実を見ない生活能力の不完全さやプライド──も、子供に対する優しい期待と狡猾な要求の行き来も、かなりあっさり流れていく。蒸発した夫に対する言葉も、憎しみや恨みは無くて良い思い出しか残っていないように聞こえるし、生活の糧を得るために電話で勧誘する婦人誌は、品行方正とは言えない下世話な小説が載っている雑誌であることが伝わって来ない。世界的な名優が演じているというのに。

それが、ジムとローラがふたりきりになったシーンから完全に変わる。物語の時計が正しく進むのだ。ところでこの演出では、ローラは足が悪くない。高校時代に矯正器具を着けていてその音が響くのがいやだった、というせりふは出てくるが、「障がい者」という表現で統一され、足をひきずることはない。むしろショートパンツで伸びやかな足は強調されている。はっきりとは言及されないが、ほとんどのシーンを部屋の片隅でブランケットをかぶって寝ている様子から、その障がいは内面にあるものと想像される。

これまでの人生でただひとり好きになった男性が偶然にも自宅に来ると知って最初はパニックになったローラだが、アマンダもトムもいない、停電でろうそくの明かりだけになった静かな自宅で、まるで障がいなど無いように落ち着いてジムにガラスの動物のコレクションの話をし、高校時代の思い出を語り出す。そのローラの言葉、ユーモアに触れて「君は他の子と違う」「きれいだって言われたことはない?」と言うジムの語りは、思わず口から出た、ほとんどひとりごとのような言葉なので、心理的にはささやきだが、おそらく音響でそうしていると予想するのだが、この上演中、最もよく客席に響いた。

その強調には、間違いなく演出上の意味がある。

ジムは、ローラの中に隠れている、見えない美しさに触れたのだ。変わり者とか古風という程度のものではない。世の中のほとんどの人が持っていないし、ほとんどの人が気付かないもの。突出した芸術性のような、崇高なもの。アマンダに「僕らは家族だからローラが良く見えるけど」と言ったトムでさえ理解し得ない、というか、家族だからこそ見誤ったり見えにくい、類まれな何か。けれどもジムは、静けさとろうそくの明かり、あるいはガラスの動物達の助けもあったのか、それに触れた。ローラもきっと初めて他人が触れるのを許した。

そしてジムはローラにキスをするが、ほどなく我に返って、自分にはフィアンセがいてローラとはもう会わないほうが良いと、思いを振り切るように帰り支度を始める。この時、ローラが一番大事にしていたユニコーンが落ちて角が取れ、ローラが「あなたが持っていて」とジムに言う。これまでも角が取れたユニコーンは何の象徴か考えてきたけれど、この時、「自分と似た境遇で生まれ育って最初からしっくり来たベティを迎えに行く」、つまり、背伸びして崇高なものに触れるより身の丈に合った幸福を選んだジムのメタファーなのだと思った。

ラストで追憶の時間から現実に戻ったトムが、それでも、いつまでもどこに行ってもローラの眼差しが追いかけてくる、と長く続く苦しさを語る。その時、ハッとした。アマンダの言葉がとにかくスピーディで抑揚が薄かったのは、トムにとって母親は完全に記憶として消化されていたからではないか。だとしたら、ジムを迎えるディナーでアマンダが着た昔のドレスが、大抵の上演の選択される、時代遅れでド派手で滑稽なものではなく、部屋と溶け込むようなブラウン系の薄いシフォンのようなデザインだったことも納得が行く。「どこにいても感じるローラの眼差し」は、姉だけは記憶の中に押し込めておけず、だからローラとジムの会話は丁寧に交わされ、シーンに抑揚があり、かつ、生々しかったのではないか。

そしてローラの障がいが内側にあり、彼女の美徳と同じように見えないものとしたことで、イヴォ・ヴァン・ホーヴェの『ガラスの動物園』は、原作のポテンシャルを一層引き出して現代に寄せたと思う。


新国立劇場海外招聘公演
製作:フランス国立オデオン劇場(上演はフランス語)
アマンダ:イザベル・ユペール
ローラ:ジュスティーヌ・バシュレ
トム:アントワーヌ・レナール
ジム:シリル・ゲイユ

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