【19】(ほぼ)当てはまるビールの科学
なかなかすごい本が出た。
原題は『A Natural History of Beer』。
「Natural History」は逐語直訳すれば「自然史」となってしまうが、成語としての訳は「博物学」……というか、「博物学」という学問の名前は明治期にこの「Natural History」の訳語として作られた言葉、とのこと。
今回は「自然誌」との邦題だが、読んでみると、人類の文化・文明との関係を歴史・考古学の観点から語り、一方で、栽培作物としてのビール原料、大麦やホップの成り立ちを解説し、微生物学の観点での酵母についても解説し、はたまた、ビールを飲んだ人間に起こる事象を生理学の観点から紐解こうと試みる。その他いろいろ。
なるほど、まさに「ビールの博物学」か。
いわゆる「博覧強記」という言葉をビールの分野で体現したような一冊。
因みに、目次はこんな感じ。
なお、この著者コンビには既刊として『ワインの博物誌』があるが、それぞれ、ご専門は「分子系統学者」、「古生物学者」とのこと。
(ただし、『ワインの博物誌』は未訳のようだ)
著者たちが系統分類学を専門とするためか、データを統計手法で多変量解析する話が多いのがちょっと玉に瑕ではあるのだが、日本語に翻訳されたビールの科学的側面にまつわる本としては、記載内容、訳語とも、これまでにないほど的確、という印象。
もう「ビールの科学」くらいは読んでいて、もうちょっといろいろ知りたい、という方あたりは、読んでみて損はないと思う。
ただ、想定読者層はブルーバックス読者よりもうちょっと上かもしれないので、その点は要注意(笑)。
さて、肝心の内容へのコメント。
全般に(先にも述べたとおり)、遺伝子の話と、遺伝情報の解析による系統分類の話が中心となっているのは著者らの専門故だろう。
前振りにあたる「I 穀物と酵母」は人類の歴史とからめたビールの歴史を博物学的にまとめてあり、読みものとして楽しい。
続く「II (ほぼ)当てはまるビール原論」は、ビール原料の大麦、ホップ、発酵を行なう酵母について、かなり最新の知見まで含めて、要約されている。
ところで、「10 発酵」の節が「II (ほぼ)当てはまるビール原論」ではなく「III 快楽の科学」に配置されている点には、若干違和感がある。
これは、発酵で生成するアルコールがその章のテーマである「快楽の科学」の根幹だから、という点は理解できなくもない。
とはいえ、前の章で語られた原料と酵母の記載と比べると、この節だけ、ビールの醸造、発酵に関して記載が端折りすぎで(説明の中では仕込と発酵をほぼ一緒くたに書いてしまっている)、これは、前章に入れて、もう少しビールの作り方の「科学」を説明してほしかったところ。
このあたりは、著者らにとっては、もしかするとやや苦手分野なのかもしれない。
おそらくこの本の白眉は「14 ビールの系統樹」。
分子系統学者、古生物学者の著者らとしては、自分たちの研究ツールをビールの分類系統樹にあてはめる、この章がいちばん書きたかったのかもしれない。
15、16は1~4と同様、博覧強記な内容が一貫した視点でわかりやすくまとめられており、読みものとして面白い。
ただし、大手メーカーを仮想敵的に扱うところはやや?
「大手メーカーの品がこれほど信頼できる品質を達成したのは化学工業の奇跡」という記述があるが、いかに大手メーカーでも、醸造は「化学工業」ではない。
「10 発酵」で実際のビール醸造にあまり触れていなかった(文献解題でもほとんどコメントがなかった)ところとも通じるが、他の科学ジャンルについては専門外の箇所もよく調べて書かれている割に、「醸造」への理解だけはちょっと浅いのではないかと思われる点は残念。
ということで、内容的には「広く浅く」なるものの、この本を先に読まれた、という方にはブルーバックスの「ビールの科学」の方もオススメしておきたい。
##補足(校正?)
実は「5 ビールも分子でできている」に、ひとつだけ致命的なミスがある。
「もうひとつ重要な分子がキサントフモールというホップの成分でビールに苦味をつけてくれる」。とあるが、これはα酸(フムロン)の誤記。
ごていねいなことに、キサントフモールの物質としての解説やビール中の濃度は合っているので、ちゃんとした文献を参考にしているのだと思うが、それにしても豪快な間違いである。
他の章ではちゃんとα酸(フムロン)で説明されているので、この章を分担した原著者の方の勘違いであろう。
あと、ケアレスミスとしては、アミノ酸の説明のところで「ピロリン」という名前が出てくるけど、そういうアミノ酸はないので、これは「プロリン」の誤記と思われる。
「6 水」にも気になる個所があり、水の中で塩化ナトリウムが塩素イオンとナトリウムイオンに「解離」することを「分解」と書いてある。
他の用語は初心者にはむつかしい箇所もおおむね正確に書かれているだけに気になったけど、これは原著と翻訳のどちらのミスか? ここは「解離」の方がしっくりくると思う。
……などなど、いくつか校正可能な箇所はあるものの、現時点では、ビールについてやや突っ込んだ解説書を読みたい向きには、自信を持ってお勧めできる一冊だと思う。