30年早すぎた『ハーモニー』!?
アナタノエスケープ
キース・ロバーツ『モリー・ゼロ』は長編まるごと二人称という実験的な作品だが、二人称の小説というのは、なかなかあるものではない。
そんな中では、百合SFアンソロジー『アステリズムに花束を』に収録された宮澤伊織「キミノスケープ」は、二人称の小説ってどんな感じ? と気になる方に、現在入手しやすい例としてオススメしておきたい。
宮澤伊織といえば、『裏世界ピクニック』に代表される百合SFの急先鋒?である。
日本のような百合SFブームはないにしても、近年はLGBTQの視点で同性パートナーを扱う小説もある。
ジョー・ウォルトン『わたしの本当の子どもたち』は、老境で介護施設で生活するヒロインが、あり得たふたつの人生の記憶を回想する物語だが、その人生の分岐点はある男性からのプロポーズであり、それを断った方の時間軸では、同性のパートナーを得たキャリア豊かな人生が語られる。
ジョー・ウォルトン氏といえば、【1】でも取り上げたこちらのエッセイで、『Molly Zero』への思い入れを熱く語っていた。
このエッセイで、ジョー・ウォルトン氏が同じ二人称SFとしてテッド・チャン「あなたの人生の物語」を引き合いに出していること、また、読者が「モリーによりそった」時に本作がベストの状態となる、と、評していることが、自分の『Molly Zero』翻訳に際して、最大のヒントとなった。
そもそも「二人称」とはどういうものだろう。語りかけられる「対象者」の「あなた」と、語りかけている「話者」が必ずいる。そういう形式。
テッド・チャン「あなたの人生の物語」なら、「話者」の方が主人公で、「対象者」はその娘で、読者から見てもわかりやすい構図になっているが、それでは、『モリー・ゼロ』の「話者」は誰だろう。
閉鎖的な教育施設〈ブロック〉で育ち、そこから逃亡し、荒廃した英国を彷徨するモリーの人生の物語をすべて知る人間…
支配側の人間? 男性だろうか? 女性だろうか?
英語の二人称はyouだけだが、日本語にはニュアンスの異なる複数の二人称代名詞がある。翻訳における、その二人称代名詞の選択は、作品の印象をだいぶ変えてしまうのではないだろうか? それこそ、本作を「一人称」か「三人称」に書き換えるのと同じくらいに。
例えば、16歳の少女に「きみ」と呼びかけると、やや突き放したような印象に、「あなた」と語りかけると、ちょっと親密な印象に感じる。
ジョー・ウォルトン氏が推奨するように、本作を「モリーによりそって」読もうとするなら、その二人称は、親しい女性が年下の女性に語りかけるように、「あなた」と呼びかける――それこそ、「あなたの人生の物語」がそうであるように――のがふさわしいように思った。
その考え方をもとに翻訳を進めてみると、たまに出てくる――16歳の少女らしい――モリーの心の中の声・感情の発露のような間投詞もしっくり来た……ように思っているのだが、ご判断は読まれる方に委ねたい(笑)。
やがておそろしき二人称
さて、「二人称」のもう一つの特徴は、「話者」は物語を結末まですべて知った上で語っている(と読者に感じさせる)ことだろう。
例えば、テッド・チャン「あなたの人生の物語」は、「二人称」のその特徴、娘の人生を未来まで知り尽くしている母親と、その理由そのものが、短編のメインアイデアとリンクしている、まさに「二人称」であることが必然の作品だろう。
『モリー・ゼロ』も、冒頭の語りかけの時点から、「話者」は物語の結末を知っている。
それでは、改めて、『モリー・ゼロ』の「話者」は誰だろう。「あなた(モリー)の人生の物語」をすべて知っている何者か……
また、基本的には「二人称」で語られる『モリー・ゼロ』だが、時に三人称での情景描写や、モリー本人のモノローグと読める表現も随所にちりばめられている。
これらは、「一人称」や「三人称」なら特に意味を見出すポイントではないと思うが、「二人称」なら、それらも「話者」が語っていることになる。
一見普通の情景描写も、さらには、モリーの心の中の自問自答までもが、実は「話者」がモリーに語りかけているのだ。
これは、「物語が終わった時点からの語りかけ」というだけではなく、物語の進行中にも、モリーの心への語りかけが行なわれていた――心理誘導!?――という可能性を示してはいないか?
そう思って読んでみると、モリーの幼年期から、「話者」以外にも、〈ブロック〉の教官にあたる〈参謀官〉の女性たちが、モリーを「You」と呼ぶ語りかけによって、モリーの行動や趣味嗜好を誘導していたことに気づかされた。
そういった箇所では、「You……」と語りかける会話体が使われているのだが、地の文の「二人称」は、その語りかけと呼応して、溶けあっている。英語なら、語りかける人物が男性だろうと、女性だろうと、ただ「You」なので、作中のすべての「You」が、最終的にはすべて響きあうことになる。
さて、そこまで考えてしまうと、立ちはだかるのが翻訳、というか言語の壁だ。
先に述べた通り、今回の試訳ではメインの二人称代名詞として「あなた」を採用することとした。しかし、日本語にはニュアンスの異なる二人称代名詞たくさんある。性格も背景も違うキャラクターが全員、モリーに「あなた」と話しかけていたら、日本語で読む小説としては、むしろ不自然だろう。
ということで、作中の会話では、「あなた」「きみ」「あんた」など、キャラクターによって二人称を使い分けてある。そのため、残念ながら、すべての「You」が響きあう、とはいかない。
また、今回の試訳では、「モリーによりそう」観点で二人称「あなた」を採用したが、全編「きみ」で訳し直すと、おそらくまったく別の小説になる。
(それを実感できる試みとして、ファンジンには冒頭と結末のみだが「きみ」バージョンで試訳したものも収録してある)
ただし、日本語で読むとほとんど別の小説といえるそのニュアンスの違いは、原文で読む読者には、複層的に、多義的に読み取れていると思われる(前述のジョー・ウォルトン氏のエッセイは、その点を鋭く指摘している)。
だとすれば、日本語で自然に読める小説に翻訳した時点で、そのニュアンスは失われてしまうことになる。
あらためて、「翻訳」というものの限界を実感するトライでもあった。
プロジェクト・ロバーツ!?
ここまで述べてきた通り、『モリー・ゼロ』は物語の結末を最後まで知っている何者かが、物語を読む読者に語りかける形式の小説である。
原文の英語には、声に出して語りかけるようなリズム感がある。
さて、もしもこの作品世界に、この「「二人称」のテキスト」として『モリー・ゼロ』が存在するとしたら、その意義はなんだろう。
モリーたちより後に生まれてくる子どもたちのための物語として、読み継がれていたりはしていないだろうか。
伊藤計劃(Project Itoh)のディストピアSF『ハーモニー』は、「感情マークアップ言語(etml)」を駆使して「意識(感情)を持たない子どもたち」に、自分たちの住む世界の成り立ちを知らせている(と思われる)。
『モリー・ゼロ』も、あの作品世界において、同じような役割を持ちうるかもしれない。
『ハーモニー』は、etmlタグという「仕掛け」を取り去ったテキスト部分の物語に着目して語られることが多い。
インターネットブラウザを使うユーザーにはテキストに埋め込まれたhtmlタグが見えないように、小説に埋め込まれたetmlタグを意識しなくても、作品を楽しむことはできる。
しかし、『ハーモニー』という作品の肝は、読者がさまざまな感情を抱くその同じテキストに対して、etmlを介した乏しい感情しか生起できない、物語の結末後に生まれたディストピアの子どもたちの姿が透けて見えるところにある。
『モリー・ゼロ』の「二人称」も、「etml」と同じように、表面的な物語にかぶさる、その世界の姿をかいま見させる仕掛けといえるかもしれない。
世界全体の紛争、宗教対立、ジェノサイドにまで至る民族差別がやむことのない2000年代だからこそ、『虐殺器官』や『ハーモニー』が生まれてきて、ディストピアの物語が新たに読まれるようになり、『1984年』や『すばらしい新世界』などの古いディストピア小説も新訳で読まれるようになった。
そんな中なら、1980年代には埋もれてしまっていた『モリー・ゼロ』が新たな読者を獲得できたりしないか、と思ったりもした。
実際、ヒロインの友人がむごたらしい死を遂げることから物語が動き始めること、ヒロインの行動を通して、救われない世界の姿が透けて見える物語構成、時に容赦のない残酷描写、ディストピアに向かって回収されていく物語は、『ハーモニー』との共通点を感じさせる。
また、物語序盤では、一緒に〈ブロック〉から逃亡したポウルとの恋愛がストーリーの軸になっているかのように思わせておきながら、その後、ポウルは物語の舞台が転換するところには出てくるものの、たいがい、すぐに姿を消す(まるで時計を持って走り回るウサギ?)。
そして、モリーの物語の肝は、行く先々で出会う魅力的な女性キャラクターとのさまざまな触れあいにある。
冒頭から、列車の中で仲よくなった親友リズとの寄宿舎生活。
上に抜粋したのは、移動遊園地の演し物のダンスでモリーを魅了したロマニー少女ジェンティとの会話。
なんて言っていいのか……ほとんど……??
また、その後ロンドンでモリーが出会うテロリストのリーダー、アンナとの関係は……!?
1980年に世に問われた百合ディストピアSF(笑)!?
ロバーツ先生……ちょっとその……30年ばかり早すぎたようです(笑)。
ファンジン版について
<内容紹介>
カトリックの支配で科学技術の発達が抑制された英国を舞台にした改変歴史SF『パヴァーヌ』で知られるキース・ロバーツ。
1980年に発表された『モリー・ゼロ(Molly Zero)』は、近未来の英国を舞台にしたディストピアSF……だったはずが、近未来描写に現実がほぼ追いついた2020年に読む本作は、20世紀末あたりに分岐した、科学技術の抑制された「もうひとつの英国」の姿を描く改変歴史SFになっていた!?
そしてまた、本作は幾多の英国児童文学へのリスペクトが盛りこまれたロバーツ流SF児童文学でもあった。それと、百合(笑)!?
翻訳の過程で調査・考察した長めの解説を各巻に、また、訳文に盛り込めなかったいろいろな事項を200以上の訳注として付しました。
<版権について>
遺稿のエージェントと交渉して非営利目的のファンジン限定の版権を取得。
また、『図書室の魔法』のジョー・ウォルトン氏による、ロバーツ愛にあふれたブックレビュウを、ご本人の許可をいただき、イントロとして配置しました。
※なお、版権契約上、最大500部、2025年までの限定販売となります。