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末の松山 波越さじとは

 大河ドラマ『光る君へ』第6話「二人の才女」で、ついに(?)清少納言とその父親、清原元輔が登場した。
 本編後のガイドでは、その親子のゆかりの地として山口県防府市が紹介されていた。

 さて、こうの史代『この世界の片隅に』をアニメ映画化した片渕須直監督が現在『枕草子』を題材にした新作『つるばみ色のなぎ子たち』の製作を進めている。
 この「なぎ子」は清少納言。
 片渕監督はかつてその諾子を自作『マイマイ新子と千年の魔法』に登場させていた。

 その原作は高樹のぶ子『マイマイ新子』(現在はアニメ映画版のイラストが表紙になっている)。
 著者の自伝的作品で、昭和30年の山口県防府市が舞台。
 主人公は祖父から「ここには千年の昔、国の都があった」と教えられる。
 映画では、それを聞いた新子が千年の昔に思いを馳せ、その空想の中で、千年前の都(周防国の国府)の姿が描かれる。
 そこでは、父の赴任に伴われて周防国にやってきた少女、諾子(なぎこ)の日常が描かれている。
 一方、昭和30年の防府にも、父の赴任に伴われてきた転校生の少女貴伊子がやってくる。そうして、新子と貴伊子、千年前の諾子の日常をかわるがわる描くこのアニメ版は、作品全体を通して、千年続く人の営みの地続き感を感じさせる。

 その少女「諾子」は後の清少納言。
 映画で描かれる子供の頃の暮らしは『枕草子』をもとにしているとのこと。
 周防守に任ぜられ赴任してきた父親は清原元輔。
 『後撰集』を編纂した「梨壺の五人」で、三十六歌仙にも名を連ねる高名な歌人でもあるが、周防守になったのは60代後半で、映画でも好々爺っぽく描かれている。
 映画の中の「諾子」はその娘にしてはだいぶ幼いのだが、二人の生没年の記録からすると当時8歳くらいだったようだ。

契りきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 波越さじとは

百人一首 42(後拾遺集 恋 770)

    清原元輔

 その清原元輔の歌から『小倉百人一首』に採られているのがこちら。
 ご本人のことではなく、依頼されて作った歌、とのことだが、(恋の始まりに)「末の松山」を波が越えることがないように、自分も心変わりなんてしません、と約束したのに、心変わりしてしまったのでしょうか、と恋人に呼びかけるという趣旨の、切ない恋の歌。

 この「末の松山」は多くの歌人に使われた陸奥国の歌枕で、「海が近いのに波が越えなかった」ことに由来して、「末の松山」を「波が越える」ことは「ありえないこと」を意味するとされている。
 でも、「波が越えない」ということが、なぜそんな「ありえないこと」の例えになったのか。

 この「末の松山」は宮城県多賀城市にあり、東日本大震災でも実際に「波は越えなかった」という。
 歌枕となったのは、貞観年間(869年)に起こった(東日本大震災クラスの大地震であったとされる)貞観地震による大津波の時の故事に由来するとされている。

 どうしてそんな遠くの出来事が歌枕になるほど広く知られていたのか。
 おそらく、陸奥国の国府が多賀城にあり、中央との人の行き来もあったことによるのだろう。
 国府の近辺にも壊滅的な被害をもたらしたほどの「波が越えなかった」のが「末の松山」だったわけだ。

 仙台出身の菅野よう子が作曲した東日本大震災の復興支援ソング「花は咲く」には、NHKで放映されたものだけでも多くのバージョンがあるが、その中のひとつ、「親と子の「花は咲く」」はこうの史代キャラクターデザイン、片渕監督のタッグで作られており、クラウドファンディングより前に作られた、もうひとつの「『この世界の片隅に』パイロットフィルム」的にも位置付けられる。

 大人になると、『百人一首』を読み返すような機会はあまりないと思うのだが、講談社の読書人のための雑誌「本」の2018年11月号の連載『百人一首うたものがたり』という解説コラムが41から44までの4首の回で、42の清原元輔の歌が紹介されていた(連載後、講談社現代新書にまとめられた)。

 「親と子の「花は咲く」」を作った片渕監督が前作『マイマイ新子と千年の魔法』で描いた清原元輔が、貞観地震にまつわる歌枕「末の松山」を歌に詠んでいた、という偶然に、これまた「千年の魔法」を感じた。

 恋人との契りに「袖をしぼる」ほどの涙にぬれている、というのは「恋の歌」らしいおおげさな表現だが、この表現には「末の松山」の由来となった「波」にぬれた人々が袖をしぼったことに因んでいるという説もあるようだ。
 その含意もあったとすれば、「末の松山」を詠んだ歌は、貞観地震の記憶を後世に伝えるための、平安の世の「復興支援ソング」でもあったのかもしれない。


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