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【16】その酵素の名は。

 前回は知る人ぞ知る(?)生化学実録ドキュメンタリーコラムを紹介した。

 この『生化夜話』の第37回に酵素化学のエピソードがあった。
 今では「酵素の本体は触媒機能を持つタンパク質である」というのは常識中の常識だが、それが解明されたのは1930年代。
 タンパク質を分析するための実験手法もちゃんと確立されていなかったこの時代に、酵母から抽出した「黄色い液体」が酸化還元反応を触媒する作用を持つ、ということが発見されたものの、その反応を触媒している成分の正体はすぐにはわからなかった。
 この液から「黄色い成分」を分離すると触媒活性がなくなり、合わせると活性が戻る。この黄色い成分は後にビタミンB(リボフラビン)だったとわかった。
 現代の用語で言えばこの「黄色い成分」は、あるかないかで酵素の活性を左右する「補酵素」にあたる。この特徴があったことから、「酵素の本体はタンパク質」ということが解明されるきっかけにもなった、とのこと。

 と、なかなかに由緒正しいこの「黄色い抽出物」、実は下面発酵酵母、つまり世界でいちばん飲まれているピルスナータイプのビールの醸造に使われる酵母から見つかったものだそうだ。
 なんと、現代に至る酵素化学が生まれるきっかけになったのは「ビール酵母」だったのだ!
 なお、近い時期に「黄色い抽出物」がふたつ見つかっていて、このビール酵母から見つかった酵素はそのうち古い方にあたったため、「旧黄色酵素(old  yellow enzyme)」と呼ばれているそうだ。

このように、生化学上たいへん重要な問題の解決に貢献し、また発見が早かったこともあり、旧黄色酵素は詳細に研究されました。しかし、(筆者がいろいろと論文を漁ってみた限りでは)旧黄色酵素のin vivoでの役割はよくわかっていません。
(中略)
このように、旧黄色酵素を含むファミリーの機能は多彩ですが、アミノ酸配列はよく似ています。しかし、不思議なことに、配列の類似性を説明できそうな共通の機能はまだ見つかっていません。活性部位の配列がよく似ているにもかかわらず、反応性が大きく異なる例もあり、この点も解明されていません。
また、最初に見つかった旧黄色酵素となると、状況はいっそう謎めいています。
Saccharomyces cerevisiaeには旧黄色酵素のパラログ遺伝子が2つあることがわかっており、これを両方ともノックアウトすることに成功した研究者もいましたが、表現型の変化は認められませんでした。ゲノミクスの研究が進み、ステロール代謝、細胞骨格の組立などなど、さまざまな機能が提案されていますが、いまだにその基質すら不明のようで、冒頭のストットの論文から20年近くが過ぎようとしていますが、彼が期待した機能解明にはもう少し時間がかかるかもしれません。(Saccharomyces cerevisiae、in vivoはイタリック)

生化夜話 第37回:正体不明の有名人 - 旧黄色酵素

 この「旧黄色酵素」、本来の役割は不明ではあるものの、これがあってよかった、という話がビール、ホップの研究でわかりつつある。

 自分の博士論文は「ビール醸造におけるホップの品種特有香に寄与する香気成分とその相互作用」というのだが、ホップに含まれる香り成分が発酵中に変化するためにこの「旧黄色酵素」が働いている、ということが、後にわかったのだ(自分の研究より後にフォロー研究してくれた方々がおられた)。

 具体的には薔薇のような香りがすることで有名なゲラニオールという香り成分が、この酵素の作用でβ-シトロネロールというレモンのような香りに変換されていたのだ。

 もともと、ホップ研究の世界ではこの変換が起こっているらしい、という論文は1980年代に2報くらい出てはいた。

 それから20年ほど経って、酵母の研究者がいろいろな酵母でゲラニオールなどのモノテルペンアルコール(他にはラベンダーの香りで有名なリナロールなど)を発酵させてみて、それぞれの成分が酵母の発酵で何と何に変換されているか、その経路を提唱した(ゲラニオール→β-シトロネロール変換はその一部)。
 ただ、この研究者さんは酵母の研究として学術的な興味から研究して、論文を2報出しただけだった。発表したジャーナルも酵母の研究者向けのものだったこともあり、知る人ぞ知る論文。
 というわけで、その時点でも、ビール研究の世界では相変わらず見過ごされていたと言っていい。

 因みに、ホップにはリナロールは必ず含まれている。
 ゲラニオールは欧州の伝統的な品種にはほとんど含まれていないが、アメリカ、オセアニアあたりのホップにはけっこう含まれている。
 ビール研究者は欧州に多いので、そのあたりのホップで醸造したビールを分析してもリナロールしか検出されないので、どうやら長い間見過ごされてきた、ということのようだった。

 今世紀になって、クラフトビールの世界で空前のホップ新品種ブームが起こり、それがニュージーランド、オーストラリア、アメリカの品種だった。
 それを使ったビールの中ではゲラニオールがβ-シトロネロールになっていて、名前の通りシトラスな香りに寄与している、というのが、実は自分の研究成果の一つだ。
(それを引用してくれているブログもいくつかある)

ニューイングランドIPAとは? より画像を引用。

 ただ、主に香り成分の分析を元にした現象論がメインの研究で、この変換がなぜ起こるのかはわかっていなかった。
 先に紹介した酵母研究者の方も、経路を提唱しただけで、関与する酵素の特定まではしていなかった。

 と、思っていたところ、2015年くらいになって、ワイン酵母とビール酵母で「OYE2」という酵素の遺伝子をノックアウトするとこの変換が起こりにくくなる、という論文、学会発表があった。

 この「OYE2」「old yellow enzyme 2」の略。
 え? 「旧黄色酵素」!?

 ということで、酵素の本体がタンパク質であることがわかる前から見つかっていたのに、何をしているかわからなかったという「正体不明の酵素」が、クラフトビールの香りをシトラスに変えてくれている、ということまではわかった。

 それはそれで、クラフトビールが好きな人にはたいへんありがたい酵素だ、ということなのだが、まさか酵母さんがホップのいい香りを醸すためだけにこんな酵素を持っているわけじゃないだろう(笑)。

 ということで、この酵素が役に立ってくれる反応がビールの世界ではようやくひとつ見つかったのだが、さて、酵母としては何のためにこんな酵素を持っているのか、それは引き続き謎のままのようだ(笑)。奥が深い(笑)。


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