見出し画像

楽観的であいまいな空気と間柄。名著「失敗の本質」から学ぶ。

お疲れさまです。

感染リスクやコミュニケーションのストレス、先行きが見えない不安。いろいろネガティブな気持ちになりやすい時期かと思います。

こういう時は「なんで~ぐらいできないんだ?」「~はダメだ」「こんな時期に~するな」といった批判的な意見が拡散されがちです。

東日本大震災のときもそうでした。

今回、コロナウイルスに対する国際的な軽視はもちろん、組織レベルから個人レベルまで多くの失敗やミスがありました。これからも予期せぬ事態がおきるでしょうし、それに伴う失敗やミスが目に付くことになると思います。

とはいえ、失敗やミスを減点式で批判するより、そこから何を持ち帰るかを考えるほうが本当は大切なはず。

せっかく自宅にいる機会が増えたので、最近色々な本を読みました。

その中でも今回は、失敗の本質ー日本軍の組織論的研究を取り上げたいと思います。

本書は「なぜ日本軍は太平洋戦争で負けたのか」を組織論/戦略論の観点から分析している一冊です。失敗やミスを批判するだけで終わらせるのではなく、学んだことを書きたいと思います。


抽象的であいまいな作戦目的

第一章の「失敗の事例研究」では、ノモンハン事件、ミッドウェー作戦、ガダルカナル作戦、インパール作戦、レイテ海戦、沖縄戦の六つの事例研究について詳細を記しています。

上記六つの戦いにおける日本軍について、筆者は第二章で以下のように分析しています。

結局は、日本軍は六つの作戦のすべてにおいて、作戦目的に関する全軍的一致を確立することに失敗している。このなかには、いくつかの陸海協同作戦も含まれていたが、往々にして両者の妥協による両論併記的折衷案が採用されることが多かったのである。作戦目的の多様性、不明確性を生む最大の要因は、個々の作戦を有機的に結合し、戦争全体をできるだけ有利なうちに終結させるグランド・デザインが欠如していたことにあることはいうまでもないであろう。その結果、日本軍の戦略目的は相対的に見てあいまいになった。この点で、日本軍の失敗の過程は、主観と独善から希望的観測に依存する戦略目的が戦争の現実と合理的結論によって漸次破壊されてきたプロセスであったということができる。(p.274)

戦争の開始と終結の目標があいまいであり、それを許す希望的観測が日本軍の敗因であることが明確に示されています。

日本軍の戦略志向は短期的性格が強かった。日米戦自体、緒戦において勝利し、南方の資源地帯を確保して長期戦に持ち込めば、米国は繊維を喪失し、その結果として講和が獲得できるというような路線を漠然と考えていたのである。連合艦隊の訓練でもその最終目的は、太平洋を渡洋してくる敵の艦隊に対して、決戦を挑み一挙に勝敗を決するというのが唯一のシナリオだった。しかし、決戦に勝利したとしてもそれで戦争が終結するのが、また万一に負けた場合にはどうなるのかは真面目に検討されたわけではなかった。(p.277)

希望的観測から導き出したシナリオを信じ、見たくないものから目をそらす。それが形成悪化した際の、対応の遅さにつながったわけです。


「帰納的」な戦略策定ー空気の支配

日本軍と米軍の戦略策定について、筆者はこのように述べています。

戦略策定の方法論をやや単純化していえば、日本は帰納的、米軍は演繹的と特徴づけることができるだろう。演繹をある既知の一般的法則によって個別の問題を解くこと、帰納を経験した事実のなかからある一般的な法則性を見つけることと定義するならば、本来の戦略策定には両方法の絶えざる循環が必要であることはいうまでもない。しかしながら、両軍の戦略策定の方法論の相違をあえて特色づけるならば、上記のような対比が可能であろう。
さらに厳密にいうならば、日本軍は事実から法則を析出するという本来の意味での帰納法も持たなかったとさえいうべきかもしれない。日本軍の戦略策定は一定の原理や論理に基づくというよりは、多分に情緒や空気が支配する傾向がなきにしもあらずだった。これはおそらく科学的思考が、組織の思考のクセとして共有されるまでには至っていなかったことと関係があるだろう。たとえ一見科学的思考らしきものがあっても、それは「科学的」という名の「神話的思考」から脱しえていないのである。(p.283)

現代の日本にも残る「空気」の概念が、組織の思考を止めていることが伺えます。

この「空気」はノモンハンから沖縄までの主要な作戦の策定、準備、実施の各段階で随所に顔を出している。空気が支配する場所では、あらゆる議論は最後には空気によって決定される。もっとも、科学的な数字や情報、合理的な論理に基づく議論はまったくなされないというわけではない。そうではなくて、そうした議論を進めるなかである種の空気が発生するのである。
日本軍は、初めにグランド・デザインや原理があったというよりは、現実から出発し状況ごとにときには場当たり的に対応し、それらの結果を積み上げていく思考方法が得意であった。このような思考方法は、客観的事実の尊重とその行為の結果のフィードバックと一般化が頻繁に行われるかぎりにおいて、とりわけ不確実な状況下において、きわめて有効なはずだった。しかしながら、すでに指摘したような参謀本部作戦部における情報軽視や兵站軽視の傾向を見るにつけても、日本軍の平均的スタッフは科学的方法とは無縁の、独特の主観的なインクリメンタリズム(積み上げ方式)に基づく戦略策定をやってきたといわざるをえない。(p.284)

ここで重要なのは、帰納法自体を否定するものではないということです。経験した事実のなかからある一般的な法則性を見つけ、戦略策定や意思決定にいかすことは有用だと思います。

問題なのは、希望的観測をもとにした主観的なインクリメンタリズム(積み上げ方式)と、意思決定に「空気」が入りこんでいることです。


戦術の失敗は戦闘で補うことはできず、戦略の失敗は戦術で補うことはできない

日本軍はしばしば戦略/戦術の失敗を、小手先の戦闘術/戦闘能力で乗り越えてきていました。そのため、戦略/戦術の致命的な失敗に気付きにくかったといえます。

猛訓練による兵員の練度の極限までの追求は、必勝の信念という精神主義とあいまって軍事技術の軽視につながった。(中略)ときとして戦闘における小手先の器用さが、戦術、戦略上の失敗を表出させずにすましてしまうこともあった。(p.290)

例えば、戦略/戦術の組み合わせが以下の場合、どう順位づけしますか?

①良い戦略、良い戦術
②良い戦略、悪い戦術
③悪い戦略、良い戦術
④悪い戦略、悪い戦術

実は①→②→④→③の順で良いとされています。「正しい目的地に行く(戦略)×すばやく到達する(戦術)」に置き換えて考えてみましょう。

①飛行機で正しい目的地へ
②徒歩で正しい目的地へ
③飛行機で間違えた目的地へ(=間違えたことに気づいたときには、取り返しがつきにくい)
④徒歩で間違えた目的地へ(=間違えたことに気づいたときに、取り返しがつきやすい)

悪い戦略のうえでは、良い戦術が事態をより悪化させるわけです。


集団主義と間柄

日本軍の「集団主義」について、筆者はこのように述べています。

ここでいう「集団主義」とは、個人の存在を認めず、集団への奉仕と没入とを最高の価値基準とするという意味ではない。
個人と組織とを二者択一のものとして選ぶ視点ではなく、組織とメンバーとの共生を志向するために、人間と人間との間の関係(対人関係)それ自体が最も価値あるものとされるという「日本的集団主義」に立脚していると考えられるのである。そこで重視されるのは、組織目標と目標達成手段の合理的、体系的な形成・選択よりも、組織メンバー間の「間柄」に対する配慮である。(p.314~315)

この「間柄」に対する配慮は、個人の評価にも繋がります。

日本軍は結果よりもプロセスを評価した。個々の戦闘においても、戦闘結果よりはリーダーの意図とか、やる気が評価された。(中略)個人責任の不明確さは、評価をあいまいにし、評価のあいまいさは、組織学習を阻害し、論理よりも声の大きな者の突出を許容した。このような志向が、作戦結果の客観的評価・蓄積を制約し、官僚制組織における下克上を許容していったのである。(p.335)

「間柄」は意思決定者周辺の閉鎖的なコミュニケーションにつながり、現場の意見が取り入れられない状態をつくります。

日本軍のなかでは自由闊達な議論が許容されることがなかったため、情報が個人や少数の人的ネットワーク内部にとどまり、組織全体で組織や経験が伝達され、共有されることが少なかった。
作戦をたてるエリート参謀は、現場から物理的にも、また心理的にも遠く離れており、現場の状況をよく知る者の意見がとり入れられなかった。
したがって、教条的な戦術しかとりえなくなり、同一パターンの作戦を繰り返して敗北するというプロセスが多くの戦場で見られた。(p.327)

ふと、こんなセリフを思い出します。

戦線から遠のくと、楽観主義が現実にとって変わる。そして最高意思決定の段階では現実なるものはしばしば存在しない。戦争に負けているときは特にそうだ。
ー『機動警察パトレイバー2 the Movie』ー


組織学習

組織学習の観点で、筆者はこのようにまとめています。

学習理論の観点から見れば、日本軍の組織学習は、目標と問題構造を所与ないし一定としたうえで、最適解を選び出すという学習プレセス、つまり「シングル・ループ学習(single loop learning)」であった。しかし、本来学習とはその段階にとどまるものではない。必要に応じて、目標や問題の基本構造そのものをも再定義し変革するという、よりダイナミックなプロセスが存在する。組織が長期的に環境に適応していくためには、自己の行動をたえず変化する現実に照らして修正し、さらに進んで、学習する主体としての自己自体をつくり変えていくという自己革新的ないし自己超越的な行動を含んだ「ダブル・ループ学習(double loop learning)」が不可欠である。日本軍は、この点で決定的な欠陥を持っていたといえる。(p.332)

「シングル・ループ学習」とは、過去の学習を通じて獲得した「ものの見方・考え方」に基づいて改善を繰り返す学習を指します。それに対して、「ダブル・ループ学習」は、シンプル・ループ学習に、環境の不確実性を取り込んで、今まで前提としていた前提を変えていく学習です。

画像1


個人的に考えたこと

今回のコロナウイルスによって、前提とする枠組みに大きな変化が起きています。今回の感染拡大が落ち着いても、近い将来また新たなウイルスが発生するでしょう。環境の不確実性に対応して学習しなければいけないことを、僕らは今、身をもって体験してるはずです。

「希望的観測に基づいたあいまいな作戦目的」「空気の支配による意思決定」「集団主義と間柄」についても、日本人は50年以上前に失敗しています。それらを否定するのではなく、学ばなければいけない。

そんなことを考えた一冊でした。


この記事が参加している募集

頂いたサポートは書籍代の一部として利用しています🙇‍♂️ ※たけぶちは、Amazon.co.jp アソシエイトメンバーです。