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クライシスマネジメントの本質 本質行動学による3.11 大川小学校事故の研究

東日本大震災が起きた2011年3月11日。

帰宅手段をなくした僕は、学校の教室で一晩過ごしました。余震の度に目を覚ましながら、夜を明かした記憶があります。

翌日帰宅してニュースを見ると、自分の想像をはるかに超えた被害に、言葉を失いました。

「復興するのに10年、20年では済まないかもしれないな...」

一緒にニュースを見ていた父親は静かにそう呟いていました。

あれから10年。

多くの児童が逃げ遅れて犠牲になった宮城県石巻市大川小学校の事故に関して、一冊の本が出版されました。

他地域と比較しても、特に被害が大きかった大川小学校。なぜ、この小学校だけが大惨事となったのか。その原因の研究結果をまとめた一冊です。

正直この本を読んだからといって、心がスカッと晴れるわけではありません。むしろ、読了後もモヤモヤとした感情が残る本だと思います。

しかし、本当に価値ある作品というのは、読者に「答え」を与えるのではなく、「疑問」を投げかけるもののはず。

だからこそ、一度読んでみて欲しいです。

今回は、個人的に読んでいて気になった点を書いていきたいと思います。


クライシスマネジメントの「本質」とは?

本質とはそれに従っていれば必ずうまくいくとは限らないが、それから外れたら必ず失敗するという類いのものである。
(p.15)

本書は、危機を乗り越えるためのクライシスマネジメントにおいて、何を損ねた結果、大川小学校の事故が起きたのかを検証するものです。

大川小学校で起きた事故原因を解明する本質的な問いは何か?

筆者はこのように分析しています。

目前に津波が迫るまで避難行動を取れなかった「意思決定の停滞」こそがこの惨事の本質と考えられるからである。「意思決定の停滞」とは「停滞させよう」という能動的な意思決定の結果ではない。また「意思決定の停滞を強いられた」という受動態でも表現することはできない。結果として、津波が目前に迫るまで何も決められずにいてしまったのである。
したがって、仮に大川小学校に津波が到達した時間があと5分、10分遅かったとしても、目前に津波が迫るまで何も決められずにいたという事態は変わらない以上、惨事は避けられなかった可能性は高い。
ゆえに、この事故がなぜ起きてしまったのかを解明する本質的な問いは、次の1点に集約できる。
"なぜ津波に対する避難行動をとるための意思決定ができず、津波が目前に迫るまで校庭にとどまり続けることになったのか?"
(p.129〜130)

もちろん様々な複合要因はあるにせよ、最も本質的な問いは「なぜ避難行動をとるための意思決定が停滞してしまったのか?」にあると結論付けています。


意思決定を阻むバイアスとコスト

では、なぜ意思決定が停滞してしまったのか?

筆者はその理由の一つとして、以下のことを述べています。

教頭は児童を山に登らせたかった。それが教頭が思うベストな避難行動であった。
しかしそれは地域住民に支持されることはなかったため、地域住民の提案に乗ることになった。
つまりこれは、学校の意思決定責任者である教頭の意思によりなされたベストの選択ではなかったのだ。
このことから学ぶべきことの一つは、危険が迫っている状況でリーダー(この場合のトップは教頭)が、組織の責任を持っていない多くの人に「同意を求める」というのは危険な行為になる、ということである。
(p.200~201)

ではなぜ、当時現場のリーダーであった教頭は地域住民に同意を求めたのか?

その理由についても、筆者は深掘って分析しています。

いわゆる公務員的なコミュニティでは「失敗回避バイアス」や「責任回避バイアス」が増長しやすい傾向にある。
最高責任者である<校長の不在>という状況において、教頭が震災2日前の前例と異なる意思決定をした結果、児童がけがをしたりした場合には、その責任はすべて教頭にあるということになりかねない。
その責任を回避するためには、何らかの権威のある人にその意思決定の妥当性を担保してもらう必要があると考えら可能性は十分に考えられる。
だからこそ教頭は、長年そこに住む地域に詳しい住民に同意を求めたのだろう。
とはいえ、教頭はあの日の校庭において最高責任者だった。反対意見を押し切ってでも強引に「山に逃げる」という意思決定をすることは可能だったはずだ。
しかし、それでもし津波がこなかったらどうするのか。強引に裏山に避難をさせた場合に、実際に津波がこなかったとしたらそれまで積み上げてきた信頼、実績、評価が埋没してしまう。
こうした心理を新制度派経済学(行動経済学)では「埋没コスト」という。埋没コストとは、それまで時間・お金・労力など既に投下したコストが埋没してしまうと考える心理的なコストであり、そのような心理が働いたとしてもおかしくはない。
(p.201~202)

では、そうした埋没コストをなくすためにはどうすればよいのか。

本書では、意思決定の指針となる「マニュアル」の必要性を語っています。

実は、それに必要なのは本質的な意味で意思決定の指針となるための"マニュアル"だ。
決めごととなる基本的な方針をチームで事前に共有し、理解しておく必要があるのだ。
避難方針が共有されていれば、反対する人を説得する際にもそうした調整コストを最小化することができる。
たとえ、その方針に沿って運営して、裏山に避難して一部の児童が怪我をしたとしても、それも方針に沿った避難行動である以上、それによって自分が積み上げてきた評価が埋没することはない(埋没コストが生じない)。
(p.221)

形式的なマニュアルではなく、意思決定の指針となるマニュアルを準備しておく。そうすることで、意思決定を停滞させる埋没コストをよぎらせないことが重要なわけです。


失敗を隠蔽する組織

この大川小学校事故後の責任問題については、教育委員会の対応にも問題がありました。最終的には訴訟という形にまで発展することに。

こうした隠蔽体質に対して、筆者は「組織は合理的に失敗する」を引用しています。

もし連帯責任制度のもとでメンバーが自らの失敗を合法的にあるいは良心に従って公表すれば、組織全員に迷惑がかかることになり、組織にとってコストは最大となる。
これに対して、違法であれ不正であれ、世間の人々の不備につけ込んで失敗を隠蔽できれば、組織にとってコストは最小となる。
したがって、当該のメンバーにとってはたとえ不正で非効率であろうと、失敗を隠し続けた方が合理的となるといった不条理に導かれるのである。
組織は合理的に失敗する p.50)

連帯責任制度のもと、個人は「組織」という架空の共同体に対して忖度を働かせてしまう。

そしてその結果、失敗を隠蔽する/なかったことにすることが、「組織」にとって最大のメリットのように錯覚してしまうわけです。

引用したうえで、筆者はこのように続けます。

起きた現実を「なかったこと」にする思考パターンこそが、我々日本人が本当の意味で反省すべき思考態度なのかもしれない。
しかしながら、だからといって「一生反省し続ける」というのも反省の本質に反しているようにも思われる。
反省とは何のためにするのだろうか?同じ過ちを繰り返すことなく、よりよい人生にしていくため、よりよい社会にしていくためではないだろうか。
誰でも過ちは犯す。過去の過ちにずっと囚われ、前を向かなければ、命を輝かせることはできない。どこまでも過去の過ちを責め続けても、周囲の人を不幸にするばかりで、社会に貢献することはできない。
そして「一生反省しなければならない」といった"無限の責任"を強いられるのは耐えがたいものになるため、「なかったこと」にしてしまうのだ。これでは社会の「事なかれ主義」はさらに蔓延していくことになる。
あるいは日本の「腹切り文化」により「戦犯」に腹を切らせようとするならば、それを逃れようとするため「なかったこと」にしてしまう。
「無限の反省」も「腹切り」も"なかったことにするマネジメント"を助長させてしまうのである。
(p.385~386)

「組織」への忖度、そして個人の無限責任を追及してしまう空気。これが事なかれ主義を助長してしまっているわけです。


個人的に感じたこと

「反省する」の反意語は、「なかったことにする」ということだ。
(p.385)

僕が最も印象的に残ったのはこの部分です。

誰でも過ちは犯すし、その影響範囲によっては重い責任を問われることがある。

その際、「組織」への忖度や個人への「責任追及」をおそれて、なかったことにしてしまうと、失敗を未来にいかすことはできません。

おそらく、これは皆なんとなく気づいてることだと思います。

では、なぜ「なかったことにする/事なかれ主義」が蔓延するのか。

それは「失敗=減点」というイメージが、今もなお日本社会に根強く残っているからでしょう。

そして、組織のトップに立つ人間が「いかに失敗しないか」「いかに減点されないか」というゲームの勝者の場合、組織全体として「失敗を認めて反省するぐらいなら、なかったことにする」インセンティブが否応なく働いてしまう。

たとえ命のかかった緊急時でも、自分の小さな失敗による「埋没コスト」が頭をよぎり、意思決定が遅れてしまう。

失敗による減点よりも、反省に対する評価がなされる社会にするにはどうしたらいいのか。

そんなことを考えた一冊でした。


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