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ミイラ展から学ぶ生死感

先日、奥さんとミイラ展なるものを見に行きました。

世界各国のミイラが実際に展示されていて、「僕も処理の仕方によっては数百年後にこんな感じになるのか〜」と不思議な気分に。

中には子供のミイラや、日本人のミイラも展示されていて、その迫力たるや半端なものではありませんでした。

展示されていたミイラは時代も場所も全く違う。そしてそこに行っている僕らを含めれば、現代と過去、日本とエジプト…みたいな多次元的にバラバラな人間が一同に集まる…というすごく不思議な空間。

そこで感じたのは、時代も場所も違うけれど、同じことを思っているのだな〜ということでした。

別れの寂しさ

展示されていたのは、たまたま湿度や温度などの環境がピッタリはまって、偶然ミイラ化したものから、それを本職としているミイラ職人が長い時間をかけて作り上げたものまで様々です。

偶然そうなったものはさておき、職人が手作業でミイラ化させたものや、お葬式の流れでミイラを作る…みたいな民族のものには共通して「別れの寂しさ」を感じました。

時代が変わっても場所が変わっても、身近な人や大切な人との別れは寂しい。だからこそ永遠を願って…それを物理的に表現するために、手塩にかけて体を長期的に保存できる状態を作っています。

中には猫や鳥などの動物のミイラもあり、犬を買っている僕としては「昔の人もペットとの別れもすごく悲しかったのだな」という親近感を感じることができました。

教科書に出てきたような時代の人達も、今の僕と変わらない、普通の人だったんだなと。

世界のために自らミイラ化する「即身仏」

ミイラ展の中で圧倒的に衝撃的だったのが、日本のミイラです。

とくに数体だけ存在する、自ら棺桶的なモノに入り、ミイラ化するまで念仏を唱え続ける「即身仏」と呼ばれる仏様のミイラです。

江戸時代に無病息災を祈って即身仏になられたお坊様のミイラと、人体の保存が出来る方法を自らの体で実験するために即身仏になられた学者さんの2体を拝見させていただくことが出来ました。

彼らは念仏をの唱えながら、そのまま亡くなる(即身仏になる)ので、今なお座ったままの形で存在します。

いずれも究極の利他であり、自分の命を越えて他人や後世のことを思えるというその精神に、自分の身の振る舞い方を深く考えさせられるものがありました。

限りある時間・人を大切にする

生と死がとても近いこと。人が一生に与えられる時間はとても短いことを伝えてくれる素晴らしい展示でした。

すべての時、すべての場所に共通しているのは、僕たちの時間はとても刹那的なものであるということ、そして別れという切なさが常に存在するということ。

そしてその上でみんな思い思いに、その時を過ごし、願っていたのだということ。

日々に忙殺されて目の前の小さなことばかりに目が言ってしまいがちですが、すこし広い目で見るとどんな時間も本当に貴重で一瞬しか無い時間なのだということを忘れないようにしたいです。