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【連載小説】「きみの手、ばりきれい」#14-3

 残りのメンバーと合流したのは、午後四時半過ぎだった。

 京都御苑ぎょえん組の春崎さんは、首から黒い一眼レフカメラを提げている。
 同じく京都御苑に割り当てられていた玉城さんは、「はぁー、疲れた。だる、もうみんなばっくれようぜ」と、とても女子とは思えないことを言った。だが、気持ちはわかる。
 橋田くんはブルーライトカットの黒縁眼鏡をかけ、一見すると尾倉と同類かと思うが、彼に比して小柄で、華奢な印象を受ける。かつ物静かであり、前衛を女子二人がぺちゃくちゃお喋りしながら歩く後ろから、粛々とついてきていた。

 その後、揃ったメンバー七人で賀茂大橋の下の土手に集まり、グループ発表にあたっての役割決めを行った。
 摂津さんが進行役を買って出て、それぞれに役割を振り分けていく。最終的には、彼女がほとんど仕切っていた。俺は『葵祭』の概要について調査することになった。

 玉城さんと橋田くんは路頭の儀の行列とその歴史的背景、春崎さんはスライド作成、尾倉は社頭の儀、摂津さんと西谷は前儀についてそれぞれ調べることになったが、俺だけ全容について調べなければならないのが気に食わなかった。

 特にやりたいと申し出たわけでもなく、ほかに余っている役もあったのに、摂津さんが「この間のゼミ発表がよくできていたから」という理由で、俺を指名してきたのだ。そんなによくできていたか? というのが正直なところだった。ただ、百人一首に含まれる和歌をいくつか取り上げ、万葉集との違いを述べただけに過ぎない。
 どう考えても納得できず、別の役回りはないかと、遠回しに、こう尋ねてみた。

「あのさ、台本を読む人とか、決めなくていいのか?」

 しかし摂津さんは眉ひとつ動かさず、

「そこはみんなで順番に読むし、自分が調べたとことか、補足しながら喋ったほうが伝わりやすいと思うし」

 そう淡々と答えるだけだった。これによって、俺の僅かな希望は完膚なきまでにあっさりと打ち砕かれた。
 あまりにも一方的に決められたので、俺は承服しかねてごうを煮やし、それならばと一つの決心を固める。

〝絶対にやってやるものか。〟

 半ば意地だったが、心に無数の抵抗の針を張り巡らした。
 

 それからはやることが特になくなり、少し早いが、皆で打ち上げに行こうという段取りになった。そこでも摂津さんがなぜか指揮をとり、彼女がレストランに電話を入れて、七人分の席を予約していた。

 午後六時前、俺たちは柳通りに面したファミレスに入った。店員に案内され、各々自由に席に着いて、注文するメニューを決めていった。
 しかし正直、俺は心中で居た堪れなさを感じていた。毎日、最低でも二時間は勉強時間を確保するようにしているのだ。いつ帰れるのかもはっきりとしないものだから、次第に焦りが昂じてくる。とりわけ今日は何も勉強をしていないという事実が、苛立ちにますます拍車をかけているわけだ。

「頼まないの?」

 メニューすら開く素振りのない俺を見て不思議に思ったのだろう、尾倉が邪気の欠片も感じられない調子で訊いてきた。

「べつに、食欲がわかないから」

 俺はとっさに嘘をついた。

 尾倉には、仮面浪人の話をしたことがない。明坂に「仮面浪人なんてみっともない」と小馬鹿にされてから、誰かに話すことを避けていたし、第一、こちらの印象を悪くしてしまうだけだという自覚もしている。尾倉の性格をまだ完璧に理解しているわけではないが、彼は明坂とは違い、俺を嘲笑するようなことはないだろう。だが、今さら真実の告白じみた真似をしたところで、こちらに何か利益があるわけでもないので、やはり黙っておく。

「ああ、そうか。お昼食べてから、まだそんなに時間経ってないもんね。実は僕もあんまり腹減ってないんだあ」

 尾倉は勝手に納得したのか、純真な笑顔を見せてそんなことを言った。この様子だと、彼は一ミリも疑っていないようだ。
 俺はその顔を見て一抹の罪悪感を覚えたが、彼の鈍感と宝石のように純粋な心に甘えることにして、特に何も言わないことにした。
 それより、一刻も早くここから逃げ出したい焦燥に駆られた。

 俺がいかにしてこの二次会からトンズラしようか考えている隣で、尾倉はメニュー表を開き、注文を迷っているのかじっと凝視している。西谷は注文を終えたのか、あるいはまだなのか、例のごとくスマートフォンを片手で操作している。摂津さんを含む、ほかの面子はは今日の感想を言い合ったり、授業内容の共有をしたりと、まるでまとまりのない様相に、俺は内心辟易した。

 かえって思い切りがつき、「用事を思い出したので先に帰る」と皆に伝えた。摂津さんは無言で、ジーッと俺を見つめてきた。ほかに表現のしようもないほどに、「ジーッ」と見てきたのである。俺も殊更ふてぶてしさを装い、彼女を見つめ返す。しばらく睨み合いが続くと、摂津さんが先に均衡を破った。

「そう、お疲れ」

 てっきり理由でも訊かれるのかと思って内心身構えていたのに、拍子抜けなほど淡白な返事をされ、俺は若干動揺したが、ようやく肩の荷が下りた気がした。周りの連中に嬉しさを悟られないよう、細心の注意を払いながら、席を立った。

 嘘を見抜かれた可能性もあるが、それならば摂津さんはなぜあのタイミングで素直に俺を帰してくれたのだろうか。あの顔だけでは判別がつかないが、俺に今夜これといった用事はない――正確にはあるが――ことは、彼女は見透かしていたような気がする。とにかく、逃がしてくれたことを幸いに、俺は店の通路を出口に向かって進み、柳通りに出ると、駅に向けて一直線に足を運んだ。

 駅に着いたとき、先程までの混濁とした気持ちを一旦整理したいという思いから、駅前の交差点を渡って、橋を歩いた。規制線が消え、警備の警官もいなくなった橋上は、高野川と加茂川の上を等間隔で走る車と、疎らな歩行者がいるのみだった。

 午後七時前とあって、橋から眺める町並みは薄暮に沈んでいる。欄干から橋下を覗くと、炎のような臙脂えんじ色を佩帯はいたいした雲を川面が映し、強い西日が河川敷の石ころや草花を煌めかせている。そこに山科川とはまた違った風情や安らぎを覚え、北東から合流地点に向かって滔々と流れる川を見下ろしつつ、糺の森の方角からかすかに届く葉音や風声、川のせせらぎに俺は耳を澄ましていた。
 そうやって焦りや不安に満ちた心を慰めていると、すぐ近くから妙な視線を感じた。俺はなんとなく首を巡らして、辺りを窺った。

 橋の少し手前に、人影がこちらを向いて佇んでいるのが認められた。初めは薄暗くて模糊としていたが、後ろの川端通を南から走ってきた車のヘッドライトが、それを照らし出した刹那、俺ははっと息を呑んだ。

 大きく丸い、黒い瞳。離れた場所からでもわかる、くっきりとした鼻の輪郭、高い鼻梁びりょう。長いストレートの黒髪。そして何より、薄手の半袖ブラウスから伸びる色白の腕。指先までさい穿うがつほどの緻密な計算によって描かれた、西洋画のような美しい手――即ち神の手ゴッド・ハンド。そう命名した俺が見間違えるはずがなく、それは紛うことなき、蓮実さんだった。

 彼女は少々驚いた顔で俺を見つめていたが、すぐに口元を弛緩しかんさせ、いつもと変わらない優しい笑顔を作った。

「あ、手フェチくん。偶然だね、こんなところで何してるの?」

 蓮実さんは陽気に手を振りながら、歩み寄ってくる。

「先輩こそ、何してるんすか」

「これから帰るの。この近くの塾で講師のバイトやってて」

 蓮実さんは俺の隣に並んで、欄干に両腕をかけ、川面を見下ろしていた。

「そうだ。よかったら、一緒に河川敷まで下りてみない?」

「え?」

 予想もしなかった急な誘いに、俺は内心困惑した。彼女は、ここでの邂逅かいこうを何とも思っていないのだろうか? ただ、断るのもなんとなく気が引ける思いがした。俺は平静を装って快諾し、彼女と一緒に袂の階段から鴨川の土手に下りた。

 河原は涼しげな風が立ち、川は鈴音のような音を奏でながら、いくつもの小さな光を水面に散らして、静かに流れていた。

 蓮実さんは河原から小石を拾い上げ、川面に向けて放り投げた。小気味よい音を立てて、小石が落ちた場所から、勢いよく水飛沫が散った。そんな彼女の遊戯は子供じみていて、俺は微笑ましくなった。
 それから彼女は伸びをして、こちらを振り向いた。

「手フェチくんも、京都に住んでるの?」

「ああ。今は山科に住んでるけど、高校までは大阪にいた」

「どうして京都に来たの?」

 続けざまの問いかけに、俺はやや窮した。いきなり「どうして」と訊かれても、「わからない」と言うほかはない。

 たしかに、俺は京都の大学を目指していた。だが、それは今通っている大学とは別の大学である。兄の下宿が近くにあるという立地的条件や、歴史が学べるという理由で、両親から無理やり押しつけられたに過ぎない。

 俺は大学選びのとき、レベルや知名度を気にしすぎていたかもしれない。だから、「京都だからいい」という考えは、ごうも持っていなかった。それは今でも変わらない。身内の学歴が無駄に高すぎるせいで、どうしても体裁を優先的に考えてしまう。それが、生まれたときに与えられた、人生の性のような気がする。

 俺が黙っているのを、俺が答えあぐねているからだと思ったのか、蓮実さんは脈絡もなく質問を転じた。

「じゃあ、京都のどんなところが好きなの?」

 閉口していた理由を彼女に言うわけにもいかず、少し考えるふりをして、俺は答えた。

「うん、まあ……歴史的建造物が多いところかな。神秘的だし、歴史を学ぶには立地的にも最適かなって思ったんだ」

 無難な回答を模索しつつ返すと、彼女も乗ってくれた。

「そうだね、色々あるもんね。清水寺とか、建仁寺とか……あ、あとうちの大学の近くだと醍醐寺とかも有名だよね」

 思いのほか陽気に話す蓮実さんを見て、嬉しくなった。理由は曖昧だが、彼女とならずっと喋っていられるような気さえした。

「先輩も、京都が好きなの?」

 つい、俺は彼女に対しても問いを投げかけた。すると、蓮実さんはちらりと視線をこちらに投げ、顔面いっぱいに笑みを湛えながら、大仰に頷く。

「うん、大好き!」

 彼女は幼い子供のようなあどけない所作で、自分の長い髪を両手で掬って後ろへ流すと、また小石を拾い上げ、鴨川の水面へ投擲とうてきした。
 日が落ちた河川敷は薄暗かった。そこに十九だか二十だかの女が、川辺ではしゃぐ十代前半の少女の影絵ように映った。そしてそれは同時に、約一ヶ月前の山科川で偶然見た、水の中を踏破する彼女とも一致した。

 そこへ、橋の上から、「おーい」と誰かの呼ぶ声がした。
 俺は声の主を確認しようと橋を見上げると、慌てた様子で土手の段差を降りてくる巨大な人影が見えた。小走りで近づいてくるその姿は、直感した通り、尾倉だった。

「何かあったか?」

 小走りにも関わらず息が切れ切れの尾倉に、俺は尋ねた。尾倉も「うん」と頷いて、事情を説明した。

 要約すると、皆で食事をしつながら世間話に花を咲かせていると、突然西谷が「帰りたい」とごね始めた。それを巡って摂津さんと西谷が対立し、口論になると、尾倉が仲裁に入った。その後、西谷を半強制的に外に連れ出し、宥めていたが、一向に効果は上がらず、結局西谷はそのまま帰ってしまった。尾倉も、その状況について報告することが億劫になり、逃げるように店から離れ、ふと夜の河原で癒やされようと思い立って、ここへ来たという。

「それで、俺たちを偶然発見したわけか」

「そうなんだよ。びっくりした」

 尾倉は照れるように、目線を俺から少しずらした。そして背後で何かの気配を感じ、振り向くと、いつの間にか蓮実さんが俺のすぐ後ろまで来ていた。
 すると尾倉は蓮実さんを認めるなり、やや驚いた顔でこう声を発した。

「あれ。ここで何してるんですか、先輩!」

「知り合いか?」

 俺は彼に尋ねると、尾倉が蓮実さんのことを、居合道部の先輩だと教えてくれた。

「いやあ、奇遇ですね。こんなところで会うなんて」

「ほんとだよ。尾倉くん、背が高くて特徴ありまくりだから、すぐわかったよ」

 蓮実さんは冗談めかしてそう言いながら、尾倉の真黄色のジャケットを軽く指で摘んだ。

「あはは、やめてください。恥ずかしいので……」

 また照れたように尾倉は笑って、身を引いた。

 恥ずかしいならその格好をやめろと言いたかったが、他人同士の会話に割って入るのは大人としての礼儀に反する。十八歳ともなれば、そのくらいの判別はつくものだ。

「その上着、暑くない?」

「好きな色の服だと、年中着ちゃいますね」

「いや。さすがに夏が来たら、それだと熱中症になっちゃうよ」

「いくら好きだとしても、夏になればちゃんと脱ぎますよ。安分守己ってやつです」

「なに、それ」

 二人の会話を聞き流しつつ、「何を言ってるんだ」などの感想をぼんやり抱いていると、俺の存在を失念していたのか、蓮実さんがふと思い出したようにこちらを振り向いて、申し訳なさそうな顔をした。

「あ、ごめん。つい話し込んじゃった」

「いいよ。せっかく後輩に会えたんだし、俺もそろそろ帰ろうかな」

 その場を去ろうとした俺を、蓮実さんは引き止めるように、こんな声をかけてきた。

「ねえ。よかったら、これから三人でどこか行く?」

「行くってどこへ?」

 俺が訊くと、蓮実さんはまた幼子のように無邪気な笑みを浮かべて、言った。

「時間大丈夫なら、せっかくだし、三条とかで遊ばない? よければ、尾倉くんも一緒に」

 それを聞いて、尾倉に流し目を送ると、彼は心持ち目を輝かせている。俺はやや逡巡したものの、単なる偶然にしろ、この好意を自ら無下にするのも憚られた。まだ時間はある、と殊更自分に言い聞かせて、俺は承諾した。欲を言えば、尾倉こそ帰るべきだと思うが。

 その後、俺と蓮実さんと尾倉は、出町柳から京阪本線に乗って三条へ出向き、深夜営業のカフェやらゲームセンターやらを巡って、夜の遊びを楽しんだ。そうして気がつけば、夜も九時を回っていた。

 尾倉とは三条通りで別れ、俺と蓮実さんは地下鉄で山科まで帰った。階段を上がり、JRの駅前広場に出ると、蓮実さんがこう告げた。

「じゃあ、私、帰るから」

「送っていこうか?」

「大丈夫。歩いて帰れるから」

「なんで、椥辻まで乗らなかったんだ?」

 彼女の下宿先の所在を思い出し、あれ、と思った俺は、素朴な疑問を提示した。

「夜風に吹かれながら帰るって、なかなかオツじゃない? 今の季節、夜は涼しいし」

「この辺、あんまり治安よくないから、交通機関使ったほうがいいと思うけど」

 意図せず脅し文句のようになってしまったのを俺は若干後悔したが、彼女は考えるように少し目線を伏せ、俯きながら小さな声で言った。

「君と、もう少し話したくて……」

 そう言ったように聞こえたのだ。
 俺はその言葉の意味を、とっさに判断しかねた。

 すると、蓮実さんは話題を探すように、再び口を開いた。

「受験勉強は、順調?」

 全く関係のない話題にいきなり切り替えられ、今度は俺のほうがまごつく。

「順調っていうか……そこそこに、って感じかな」

「普段、どんなことしてるの?」

「過去問解いたり、模試受けたり……やってることは、去年と変わらないけどな」

「そうなんだ。第一志望、受かるといいね」

 蓮実さんは優しく微笑すると、今しがた出てきた地下鉄の出口へ視線を投げた。

「私、やっぱり電車で帰るね。今日は楽しかった。尾倉くんにもそう伝えておいて」

 彼女はそう言うと、朗笑を残したまま、駅の階段を戻っていった。

 俺は数秒の間、呆然とその場に立ちすくんでいた。恍惚とし、まるで意識が浮遊したように、現実感がなかった。先程まで蓮実さんのいた場所から、目が離せなくなっていた。他人を惹きつける力、話術、それらすべてが、俺の意識に絡みついていて、酩酊めいていさせていた。
 夢から覚めたような寂寥せきりょう感が、俺の大脳の外側を覆い、彼女の甘い声の余韻とともに、河水のように俺の記憶に押し寄せた。

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