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『最適化社会』という過渡期

昨日は、経営実践研究会/サイニック理論研究委員会のチーム分会でした。
わたしたちのチームは、来月『最適化社会(2005〜2025年)』に関する発表を行うので、その打ち合わせです。

ところで『最適化社会』という名称は若干解釈がややこしく、「こんなに問題が多いのに、どこが最適化なんだ?」と指摘されることがあります。
しかし、その意味するところは『最適化された社会』ではなく『最適化されていく社会』なのだと、中間真一さんも言及されています。
つまり、完成された状態を指しているわけではないんですね。
また、そもそも何をもって『最適化』と呼ぶかも微妙な問題です。

昨日は、そのあたりについての意見交換をしました。


わたし自身は、サイニック理論の『最適化』という名称の定義を『各自が自分にあった時代性に根ざしていくこと』と捉えています。
というのも、ここ最近のAIの発達に見られるように、科学技術はものすごい勢いで進化していますが、結果としてイノベーター(最先端)からラガード(最後部)までの幅がどんどん広がっているからです。
畢竟ひっきょう、どこまでの技術を受け入れるかは、人によってマチマチにならざるを得ません。

以前は、代表される技術で時代をひとくくりにできましたが、今後はさまざまな時代性が混在していくことになるでしょう。


たとえば、イーロン・マスク氏のニューラリンク(脳にチップを埋め込んで、直接コンピューターとやりとりできる技術)が完成した場合、それを受け入れる人と「絶対に嫌だ」と思う人に分かれていくはずです。
池辰彦さんが、そのあたりの未来予測を実に丁寧に記事にしてくださっています。


つまり、各自の指向によって、『自分がよって立つ時代性』が決まっていくことになるのです。
ちょうど、YouTubeやAmazonストアが、その人にあった情報を選別して送って来てくれるような状態ですね。

ただし、そうした自動化は、個人の意思や意識を尊重していません。
次にくる(と、サイニック理論で予測されている)『自律社会=自分で自分を律する社会』は、人が自分の依拠する時代性を自分で選ぶ時代だと思うのです。
20世紀的な人もいれば、21世紀的な生き方を選ぶ人もいる。
18世紀の生活を今でも遵守するアーミッシュは、その先駆的存在と言えるでしょう。
時代の流れをこばんだ人たちが、時代の最先端に変わるパラドックスは、なんとも愉快です 😊


これまでの時代には、『最先端の技術をキャッチアップしなければ、生き残れない』という、ある種の強迫観念がありました。
そのあり方を好む人は、引き続きその信念を活力にするはずですが、そうではない人たちもドンドン出てきます。
その多様性を認め、気持ちよく共存していける優しい世界こそ『自律社会』の先にある『自然社会』ではないでしょうか。

『最適化社会』は、そこに向かう過渡期であり、大きな転換期なのです 😊

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