徒然なるままに迷路
夢を見ました。
大学時代の、人の好い友人の祝いの席。
畳に長机の和室。
なぜか突然スピーチを頼まれ、面識のない、ちゃんとした人たちの前で話す恐怖を感じながらマイクの前に。
無難に学生時代のことを無理やり思い出しながら話はじめる。
誰も興味を示していないのは気配でわかるが、話し続ける。
恐る恐る客席の方を見ると、来客は席を立っていなくなっている。
友人さえも雛壇を離れ、会場の後ろのほうで関係ないことをしている。
友人の兄が、友人を注意する。
その他の、席に残って私の話を聞いているのは、すべて私の親族。
(以上が憶えている夢の内容です。)
真相心理をえぐられたようでゾッとした夢でした。
が、私の深層心理はさておき、冠婚葬祭、自分に縁がない正式な集まりなどで、マナーは命綱だと思いました。それさえ踏まえておけば、という。しかし夢に訪れてきたような実体のない場所で、ただ、面識のない人たちに向かって話をする場面を想像すると、
普段はよく、他者との会話が成立しているものだな、
と、思わされました。相手ありき、なのでしょう。雑学や知識に頼ってしまうのもそれが原因かと思います。
"一人でいるよりも集団のなかにいた方が孤独を感じる″、さらに他者が自分にまったく興味を示さない集団の一員という立場に置かれると、孤独というより恐怖を感じます。心の消滅が起きているようでした。
それは人間が社会的動物だからなのか、国民性なのか、個人の性格に依るところが大きいのかは分かりませんが、
一方で、そのような現象を俯瞰で見てみて、社会的な自分と、一個人としての自分を誰しもが持っていて人間世界の活動が進行していると考えるならば、一個人としての自分を、社会で活動させ、結果を、一個人としての自分に落とし込めれば、心の消滅への恐怖心によるストレスも減ってくると思います。
詳しくは分かりませんが、多種多様な民族、文化が交じり合う国で個人が尊重され、《西洋人の生きかたの根底には、ほとんど絶対的ともいうべき自己肯定感がある。》(『一度は考えておくべきこと』福田恆存評論集5》のは、心の消滅への恐怖心を軽減させるための、そういうプロセスがあるのではないかと、勝手に想像しました。
ここ数年、最近の日本映画や日本の小説にちゃんと触れていませんが、現在の日本社会文化と個人心理のギャップの落としどころを描き、大多数の人が見て共感するような作品が出てくれば、心の消滅への恐怖心のストレスに関しては少なくなるのではないかと思いました。
(今回の、個人的出口です。)
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