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心地よい抽象度
比較的抽象度が高いコミュニケーションが好きだ。
「なんかあれイケてないんでもうちょいこう、良い感じにしたいっすよね」「ですよね、結局あれですよね、人ですよね」的な粒度でやりとりして、後は各々正解に突き進んでいく的な。
逆に「〇〇を△△にしたいのでXXをしてもらっていいですか?」的な具体度の高いコミュニケーションをしたりされたりするのが苦手。
僕自身「具体的に伝え過ぎること」= 「相手の自由な思考スペースを奪う失礼な行為」と思っている節が合って、物事を伝えるときは無意識で「What」「How」を具体的に伝えるよりも「Why」や「Want」を伝えがちな気がする。
そんなことを今まで明確に意識してきてはいなかったのだが、初めて大企業に転職して共に仕事をする人が増えたことで、人によって受け止めやすい抽象度の違いがあるということを学んだ気がする。
人によって心地よい抽象度がある
同じ会社や同じ職種、同じプロジェクトのメンバーという条件で大枠の思考性や向き合う課題が近い中でもコミュニケーションにズレが起きやすい条件があって、その一つが心地よいと感じる抽象度なんじゃないかと思ってる。
会社員時代に僕がやっていたProduct Managerという職種は問題解決を高い質と早いスピードでを行うことが仕事のコアの部分になる(PMに限らず多くの職種がそうだけど)。
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僕の場合でいくと、問題解決のプロセスの中でこの図で言う上の方が好きだ。逆に明確な解が見つかった頃にはもうその課題に飽きて次の課題を探してしまいがちでもある。
逆に解が特定された問題を確実に解決していくことが好きなタイプの人もいる。20代の頃コミュニケーションのすれ違いが増えてしまっていた時期があったが、僕は相手の好む抽象度を考えずに自分がとってもらったら嬉しいコミュニケーションを他者に対しても行なっていたのが原因だったなと今になって思う。
「具体的に〇〇をやってほしい」とお願いすることは僕が問題解決の中で最も好きであり重視している「Issueや解の特定」というプロセスを奪うことになってしまうのではないかと考えていた。
なので僕はどちらかというと起きている事象の共有や大きな方向性の話に重きをおいてコミュニケーションをとったり、「考えてみてください」とボールを投げたりしていた。
その結果として「結局どうすればいいですか?」という問いが来てしまったり僕からも相手にとって適切なアドバイスが出せなかったりと、コミュニケーションの量が増えても質が高まらないという問題が起きてしまった。
今考えると相手にとって受け止めやすい(心地よい)抽象度を掴めなていないままコミュニケーションはうまく回らないよなと思う。
「相手の心地よい抽象度を掴む」というのは言葉にすると難しそうだが、ちゃんと観察してると案外すぐに見えてくる部分なので、この観察というプロセスはサボらないようにしている。
「どっちが良いとかじゃない」はまあそうなんだけど、コミュニケーションの自由度は上げていきたい
このテーマって色んな本で既にこすられまくって、最終的には「どっちが良いとかじゃないから歩み寄りながら補完しあっていこうね☆」っていうクソみたいな結論で終わりがちだ。
もちろん絶対的にどちらが正しいということはなく、「抽象の人」しかいないと方向性が決まっても問題解決が前進しないし、「具体の人」ばかりだと解く意味の薄い問題ばかり問いてしまう問題が起きてしまう。
そんなことは承知の上で、それでもやっぱり「自由度・抽象度の高いコミュニケーションが取り合えた方が絶対楽じゃね?」というのは今も思うところではある。
お互いにとって「良い感じ」の定義が揃ってると会話が楽じゃないですか。ツーカーでやりたいじゃないですか。逆に微妙なギャップがあるとそれはそれで新しいヒントが見つかるかもじゃないですか。
あと最近思うのは、「これは解決するだけの道筋が見えた具体的なタスクだ」と思われることにも、工夫やアートの余地があることも多々あるということだ。
一見タスクを泥臭く消化することがメイン業務と思われがちなプロジェクトマネジメントも、工夫によっては工数や質を大きく改善する余地があることが多い。
具体的すぎるコミュニケーションというのは、わかりやすさや思考すべき項目を最小限に減らすメリットがあるものの、どうも工夫の余地を奪ってしまうというデメリットがあるのではと思っている。
とはいえ、ただ闇雲にコミュニケーションの抽象度を高めようとしても失敗は見えているので、抽象度が高いコミュニケーションが成り立たせるための条件を考えてみた。
自由度・抽象度の高いコミュニケーションが成り立つ条件
色々と試行錯誤して大事だなと思ったのは、このあたり。
価値観を相互理解できるコミュニケーション量・頻度
心地よいと感じる抽象度の(大まかな)一致
条件① 価値観を相互理解できるコミュニケーション量・頻度
急にハートフルになってしまったが、一番はコミュニケーションの濃度な気がする。
ただ別に辛いものが好きとか最近見たドラマとかそういう話ってよりは、「何を課題に感じるか」「何の解決を重要視するか」とかそういう粒度のコミュニケーション頻度がどれくらい行われているか、というのがコミュニケーションの自由度を高められる要因なのではと思っている。
もちろん肩が凝ってるとかパクチー苦手とか知ってて損はないかもだけど。
そのあたりの価値観がある程度一致してないと、ただ抽象度が高いだけで問題解決に効果を発揮しないリスクが高い。「課題はAなので良い感じにやりましょう」と合意しても「課題A」の定義が双方全然違ったり、「良い感じ」の方向性が真逆だったり。
一方でこういった価値観を一致させていくにはコミュニケーションの絶対量が不可欠であるし、人によってはかなりの時間をかけていく覚悟が必要だと思う。
条件② 心地よいと感じる抽象度の(大まかな)一致
条件①と逆行するようでもあるが、時間をかけ続けても人の価値観や思考性を思うがままにコントロールするのは凄腕のメンタリストであっても不可能だと思う。
なのである程度は割り切りが必要で、ツーカーでスピーディーでスーパークリエイティブなコミュニケーションを取り合えることを全員に対して目標にするのではなく、あくまでも相対する人それぞれに対して「コミュニケーション効率を最大限高める」くらいの期待値じゃないと双方のストレスに繋がってしまう。
人の根本は変わらないので、無理に期待値を上げてフラストレーションを感じるのではなく、結局は諦めるところをスパッと諦めて自分の形を柔軟に変えていくのが大事なんじゃないかと思う。