学校での「政治的中立」を考える。
問題視される学校での「政治的中立」
18歳に選挙権が変更されたことにより、学校では主権者教育などの政治教育が活発に行われるようになってきました。それと同時に、そういった政治教育を行うにあたって、学校現場での「政治的な中立」が問題視されることあるようです。
例えば、選挙について授業を行った際に、ある1つの政党しか扱わなかったとか…です。
教育基本法第14条では,第1項で「良識ある公民として必要な政治的教養は,教育上尊重されなければならない。」と規定したうえで,第2項で「法律に定める学校は,特定の政党を支持し,又はこれに反対するための政治教育その他政治的活動をしてはならない。」と定められており、このケースはこの規定に該当すると考えられるでしょう。
また、教員の「政治的中立」とは、こうした社会科の授業においてだけでなく、すべての教科や場面において守られるべきものだと考えられます。
学校に入り込む様々な政治性
しかし、ここで1つ疑問が浮かびあがります。「教育内容(教科書)は中立か?」という疑問です。国は学習指導要領にそって教育内容を定めていくわけですが、そこには教育目標として想定される理想的な人物像というのが定められています。逆に言えば、その教育目標に沿って、教育内容が定められる。そして、その目標は時代ごとによって違い、それに伴い教育内容も変遷されてきた。また、教育はナショナルアイデンティティの形成に密接な繋がりを持ちます。特に言語や歴史の共有は、国民統合を進める装置としての役割を持ち、その意味で国語や社会科はナショナルアイデンティティの形成に重要な役割を果たします。
つまりは、教育内容(教科書)に国の政治的なイデオロギーが多分に含まれているということです。
そして、こうした政治的中立性が問題視されるのは社会科において、特に政治教育の場において多いように思いますが、普段の授業のその他の場面でもこれを考えてみましょう。
教員は教科書を授業にする際に、学習指導要領の規定を受け、「こんなことを学んでほしい」とか「こんなことをわかってもらいたい」という目標をもとに構想していきます。その目標もまた社会の価値観や大切だとされる規範、社会を大きく動かしていくような考え方に大きく影響を受けています。つまりは、授業の枠が教員の思考により作られるのであれば、その思考のバイアスが必然的にかかっていくということです。そして、授業の際には、教育内容のどこに比重を置くのかということも重要な意味を持ちます。例えば、日露戦争後の日比谷焼打ち事件。ポーツマス条約に人々の不満が爆発し、「暴徒化した」ことが重視された場合、それとも政府が戒厳令を発し「鎮圧した」ということが重視された場合、受け取る印象は変わってきます。暴徒化したことが重視されれば、政府に対して「不満があれば抵抗する」ことが、また、鎮圧されたことが重視されれば、「抵抗してはいけない」ということがメッセージ性を帯びます
このようにどこに比重を置くのかという問題に、教師がどのように社会を見ているかという内面の政治性が表面化されていきます。
つまりは、歴史をどう教えるか?、どう語るか?、どう学ぶか?ということそのものが政治的な問題であるといえます。
このように教育内容や授業には、教育内容を定める国の立場から、また、教員の立場から様々な思考が複雑に入り込んでいるということができるでしょう。
政治的中立を考える
確かに、特定の政党の支持を扇動したり、1つの価値観を押し付けることはあってはなりません。しかし、これだけ学校現場に入り込む政治性を、今回の授業は政治の話ではないから「政治的中立」の問題とは関係がないとか、そもそも「中立」という言葉で「無いこと」とするのも疑問が残る。
だから、私は「政治的中立」を保つために、こうした教育に入り込む政治性を理解し、どの立場から話をするのかということにもっと自覚的になるべきだと考えています。
今回はだいぶ固い話になってしましました…。