『読書という荒野』に立つ勇敢な者になりたい
『読書という荒野』って、読書に関する本? 読書の作法でも書かれているのかな?
そんなたやすい気持ちで読み始めると、怪我をしました。
全治1カ月で済めばいいですが、この胸の痛みは読み終わったあとも、これからの人生にも尾を引く“一生傷”になることでしょう。
……そういうと、とても悪質な言い方になってしまいました。
違うんです、むしろ「一生傷なんて光栄だ! 私の胸を射抜いたこの傷は、あの見城徹さんがつけてくれたものなんだ!」と、名誉の怪我なのです。
つまり言いたいのは、「この本を迂闊に読む始めると、怪我をするぜ!」ということ。
それぐらい、衝撃的な前代未聞の本です。
前置きが長くなりました。
この本は、人生を歩むうえでいつだって読書が、そこで獲得した言葉が、人生の道しるべとなる。
人間を人間たらしめている、“言葉”を正確に掴めるようになるには、
読書でしかその力は養われない。
そういったことを見城さんは時に優しく、時に鋭利に胸に言葉という剣で突き刺して伝えてくれています。
本当に胸がひりつくんです。見城さんの言葉が刺さるわけですから。
見城さんの圧倒的なやさしさは、「はじめに」からあり、読書は途中でやめてもいいのだとか、とか。
そういったところからまず、読み手に安心感を与えてくれました。
だけどそんな安心感にゆだねていると、読書を通じてどういうひりついた想いを抱えてきたのか、そんな見城さんの原体験にふれます。
こんなに過剰に読書をできているだろうか。
そして読書ってこんなにも過剰だったのか…!と、目が覚める思いです。
***
私が人生で一番読書をしたのは、小学校高学年から高校生時期。
三重県での学生時代です。
そして悲しいといえばいいのか、私は「とても時間を持て余していた子供」でした。
片親で、母親は土日も働いていたため、母親が帰宅するまでは、ただ漫然とテレビを見たり。3つ上の兄はテレビゲームばかりしていました。
一台しかないテレビを独占されがちだった私は、土曜日になると決まって自転車で15分くらい離れた坂の上にある図書館で、ひたすら本を借りては読み、借りては読み。
それなりに友人もいましたが、学校外で会うことはあまりなかったように思います。
私は宮部みゆきさんをはじめとしたミステリー作品を読んでばかりいました。
振り返ると、私の読書原体験は、ただ孤独を埋める行為です。
かっこよく言うとそうなりますが、貧しかったこともあり実際は時間を読書でしか消化できていなかった……。
ただ時間と活字を消耗するよう読書をしてしまっていたんですが、無駄だったかといわれるとそうではなく、それなりに朧げに文学が私に宿っている気もします。
もっと、見城さんのように貪るように読む意識があればよかったのにな、と一定の速度で過ぎ去ってしまった、かつての学生時代を惜しみます。
ただつい間違ってしまいそうになりますが、読書は量や勝負ではないのです。
読んだ数ではありません。そして誰かとの教養合戦でもない。
読書は知識を得る行為でもありますが、もっと本質的なところをとらえなくては……『読書という荒野』を読んでからはそういう思いです。
つまり、繰り返し書かれていたことですが、「どう感じるか」。
読書を通じて、人間の欲や感情、価値観、思想、美学、さまざまな「他者」を知り、そんな他者への想像力をどこまで育て上げられるか。
どこまで自分を磨き上げられるかは、これから読む本と自分のあくなき向上心にかかっています。
苦しい! 苦しいけど、私だって編集者の端くれです。
そんな荒野を、見城徹さんの背中を追って匍匐前進したいのです。
***
抜粋は迷いましたが、
印象深かったところをひとつだけ。
それは石原慎太郎さんとのエピソード、「男の言い訳」。
石原さんのエッセイの中で語られていた、死の間際に、たった一人だけに事の真相を話すラグビー選手のダンディズム……。
見城さんはこう記してくれました。
「仕事を進める上で譲れない美意識を持っているということは大切だ」。
痺れる、ラグビー選手にも石原慎太郎さんにも見城徹さんにも。
私のなかの「漢の血」が沸き立つのです。
沸騰しそう……絶対、これが仕事における真理だと、真理を示す言葉だと確信を覚えます。
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『読書という荒野』に関しての私の感想は甚だ未熟であり、そして未完です。
なぜならば、この本を何度でもそれこそ擦り切れるまで読み込んでいきたいからです。
少なくてもこの本に挙げられていた良著を合わせて読み進めたい。
そしてまたこの『読書という荒野』に立ち戻りたいのです。
この先読書を重ねることで、きっと私は勇敢になれる、そう信じます。