読書感想文 小説『あん』を読んで。『感じることの大切さ』
個人がイノベーションできる社会を目指す惠美須一慎です。
今回は小説を読んだ感想です。
本はコチラ
タイトル あん
作者 ドリアン助川
出版社 ポプラ社
ページ数 239ページ
あらすじは次の通り
この小説はイッキ読みしないといけないと思い、この日曜日に何も予定をいれず、この小説を読むことだけに集中しました。とても涙を誘うストーリーで感動しました!
さて、私の読後すぐの感想は、
『聞くな。感じろ。』です。
まずこの小説の大きなテーマは『ハンセン病による偏見』です。
徳江さんがハンセン病による様々な出来事、また昔からつづくハンセン病の偏見の歴史、らい予防法による隔離などこのストーリーの一部分を支えるテーマです。最初はその予備知識を持って私も読んでいました。偏見によるストーリー展開がなったときも『この人なんやねん!』という怒りの感情が出てきました。
しかし、読後は不思議とそのテーマを超えたところに、この小説の本質があるのではないか?と感じました。
それは『感じること』です。
主人公の千太郎はまったく乗り気ではないどら焼き屋の店長です。
ハンセン病の過去を持ちながら、つぶあん作りを手伝うアルバイトになった徳江さん。
この方が手伝いに入ったことで、あんの味が格段に変わり、どら焼きが売れていきます。
理由は、あんの作るときの丹精込めた徳江さんの姿勢にあります。
徳江さんは小豆づくりのときに顔をギリギリまで近づけます。それは小豆の声を聞いているのだといいます。カナダ産の小豆の時はカナダで芽吹いて、収穫され、はるばる日本に来た、その一連のストーリーを聞くのだそう。
そしてここに来ていただいた小豆に敬意を表し、もてなすが如くあんを作っていくそうです。
ここに私は、この小説の根底に流れるテーマを感じました。
『感じること』の大切さ。
目の前のものに対して、感じる。小豆を感じる。そして、徳江さんは桜が好きでした。千太郎との出会いも徳江さんが桜を見えていたことがきっかけでした。
そしてその時、徳江さんは桜を『感じていた』んですね。
すべてのものには魂が宿る。スピリチュアル的ですが、実は本質だと私は感じました。目の前のものに真摯に向き合い、感じる。そして感じたことにコチラから応える。この目に見えない交流が、人生におけるとても大切な事だと感じました。
そして、感じることは日本人特有の感覚なんですね。
木や石や花に対して美しさや敬いの念を持つのは、自然なものに対して何らかのことを感じていることにほかなりません。
枯山水に美や宇宙、はたまた無の境地まで見出す感性は日本人ならではの『感じる』ことに特化した感覚だと思います。
小説『あん』も、そうした感じる心の大切さが人生に影響を与えることを訴えかけていると私は捉えました。
徳江さんは施設内でお菓子をつくる製菓部を起ち上げ、みんなのためにお菓子を作ります。そのときの部のメンバーに『小豆の声を聞きなさい』と言って、まわりから煙たがれるエピソードがあります。
徳江さんの友達は何度も小豆の声を聞こうとするも、聞こえてきません。物理的な声が聞こえないことで徳江さんを嘘つきだと捉えます。
しかし、その友達は最後には感じられることはあるんだと悟ります。
(物語の最後の最後なので、具体的には書かないようにします)
すべては感じることができるんだという事なんです。
この小説は目の前のことに真摯に向かい合って、感じる事の大切さを訴えかけているのだとおもいました。
徳江さんは言います。
すべての物を感じるために、ひとは存在する。どれだけ絶望的な状況であったとしても。隔離生活であっても空に飛ぶ鳥、木、風、そしてお月様を感じることができる。たとえ声が聞こえなくても。
それを感じるために、それを見出すために、人間は生まれてきたのだと訴えている気がしました。
これは日本人ならではの感覚だと思います。
ちょうど徳江さんが好きだった植物が桜です。
主人公の千太郎との出会いも桜の木の下からでした。
桜をモチーフにしているのは日本人が情緒的に感じるものであるところも作者が意図しているのではないかと私は思います。桜と言えば、皆さん何かしらの感情が浮かびませんか?それってとても大切な『感じる』力なんです。
そしてハンセン病という要素はこの小説において、絶望的な状況を作り出すためのエッセンスであるように私は感じます。日本で起こった絶望的な状況。それは決して許されないことではあります。ただ、その状況で徳江さんは感じる力を育てた。そしてそのために生まれてきたんだと感じました。
日本的感性×絶望的状況としてハンセン病を設定したのではないかと私は思います。もしくはハンセン病の取材をしていく中で、みなさんが絶望的な状況(許されない事ですが)で、何かしら感じる力を持たれたことに気づいたのではないかなと、私は感じました。
私が、いちばん涙を誘ったのは、ラストシーンではなく、その一歩手前のシーンです。主人公がどら焼き屋のオーナーと考えが合わず辞めてしまい、一日部屋の中で布団にくるまって過ごすシーン。主人公の千太郎は首を吊ろうと紐になるものを探したり、ひっかける場所を探したりします。
わたしも、会社の人と考えが合わず、言い合いをするも言い合いに負けて、さらに実績が出なくなり、会社から『あいつは正論ふりかざすけど実績だせないじゃん(笑)』と評価されたとき。
軽く『このまま逝ったら楽だろうな』と考えたりしました。
土日は布団にくるまって過ごすこともしてました。
人生行き詰まるとこうなるんですよね。
そこでにっちもさっちもいかなくなった千太郎は夢を見るのです。
それは幻想でもあり、解決策でもあり、
小説の肝に関わるので詳細は読んでいただきたいのですが、集合的無意識というか、あるつながりが起こるのです。
人間追い込まれて、どうにもこうにも動けなくなったとき、ある一筋の光でかわるんですね。私も本当にこんな感じで、思いとどまりました。
逆に、ここまで追い込まれて初めて人間は強くなり、思わぬアイデアがでてくるのでしょう。
いま振り返るとあの時の自分に感謝です。『よく頑張ったね』と。タイムスリップして自分を抱きしめてあげたいです。
また運命についても気づかされました。
主人公の千太郎が運命を嘆くシーンで、徳江さんは運命を否定します。
いちばん運命に翻弄された徳江さんが運命を否定するんです。
本の中では、この病にかかることは神から呪われた人生(うろ覚えで表現違ってるかもしれません)的な表現をしていました。
運められた命なんてないんですね。自分がどう生きるか。そして、どんな状況でも『どう感じるか』それがいきるということそのものなのではないか。
ちょうどこの本の裏表紙を見返すとこんな言葉が書いていました。
とても奥深いところに考えが及んで、作者の意図するところとは違ったのかもしれないですが、『生きることの意味』について私は気づかされました。
いま目の前のことを感じる事。そして感じるため(見つけて評価するため)に私は生きてきたのだという事。だから私が感じることは恥ずかしく思うことなく、大切にしていこう、そう思える小説でした。
ドリアン助川さんとてもよい学びありがとうございました。