デザインするための「ドグマ」-デザインサークルの民俗学的分析
00:「トンマナ」?
「トンマナ」と呼ばれるものがある。これが弊団体(designing plus nine)の中だけで通用する言葉なのか、割と人口に膾炙した言葉なのかは良く分からない。どうしても、聞くたびに豚のイメージが頭の中に浮かぶが、それとはあまり関係が無い。「トンマナ」というのは「トーン&マナー」の略称で、複数の媒体へと展開するデザインに統一感を持たせるため、使用することのできる色・使用するフォント・ロゴの使用規定などを予め定めたもの総体を指す。要は複数人で同じテーマに沿ってデザインを分担するとき(貴方はポスター表面、貴方は立て看板、貴方はSNS用の告知画像……)、それぞれの担当者がてんでバラバラの統一感が無いデザインを作らないように、ある程度のルールを定めておくわけだ。といっても中々理解しづらいと思うので、少し具体例を見てみよう。この記事がこれから中心的に扱うのは、designing plus nineが2024年度の五月祭に出店した「U A Peach」のトンマナなので、それを見ることにする。
トンマナの具体的な例
「U A Peach」というのは2024年度にdp9が五月祭に出店した桃パフェの店の店名であり、当日は「グレイス」と「うらら」という二種類のパフェを提供した(ちなみに、累計750食を超える驚異的な売上だった。)。
さて、トンマナとはどういうものかを知るための例として、この巨大なメニュー表を見てみよう(トーン&マナーについて、良くご存じのデザイナー諸兄は読み飛ばして次に進むのが良いと思う)。
例えば画面内には基本的に4色の色しか使われていない。「グレイス」に使われるピンク、「うらら」の方に使われる黄色、画面下部のバナーなどに使われるベージュ、文字色のチャコールグレー。なんでこの4色しか使われないかというと、使って良いとトンマナで指定されている色がこの4色ぐらいしかないからだ。
それから、使って良いフォントも厳格に定められている。「¥500」や「さくさくさらり」「黄桃と抹茶の和風パフェ」などに使って良いのは「筑紫A丸ゴシック」。「グレイス」というメニューの名前に使って良いのは「貂明朝テキスト」のみなど、こうした書体のルール設定もトンマナの中に含む。
こうしたルールを定めたセットを「トンマナ」と言い、集団でのデザイン制作が開始する前に参加するデザイナー全員に共有されるわけだ。
問題設定
さて、今からやりたいのは、この「U A Peach」を作り上げていく過程で起こった「トンマナ」を巡るコンフリクトを分析することだ。なぜ「トンマナ」を扱うのか?それは、まず「トンマナ」を定めるというのがデザイナー集団に特有の行為であり、もっと言うならば「集団でデザイン制作をする」dp9に特有の性質を含んでいると思われるからだ。そのことを民俗学的に分析することに興味がある。じゃあ、なぜ「コンフリクト」を?それは、トンマナを巡って人々が対立するとき、トンマナの存在意義や使い方そのものが問いに付されたり再確認されるときにこそ、この「トンマナ」の地金が、その性質が最も顕わになると考えているからだ。
まずは「U A Peach」がどのように形成されていったのかを、ざっくりと見たあと、実際に起きた「トンマナを巡るコンフリクト」の内実について詳述する。そしてそこからは哲学に迂回しつつ、最終的に「トンマナは一体何なのか?」という問いに一つの解答を与える。先に述べるなら、我々が最終的に得るのは「トンマナはドグマである」という奇異な解答だ。
01:「トンマナ」を巡るコンフリクト
「トンマナが守られていない!」
トンマナが決定し、制作を分担して進める中で発生したのが「トンマナが守られない状態に陥りつつある」という問題だった。これが、今から分析を進めていくコンフリクトだ。とりあえず分析に入る前に、このコンフリクトが認知され、改善され、五月祭後に反省されていく過程を見てみる。
まず、4月24日に行われたデザインを統括するリーダー層の会議では、既にキービジュアルとして撮影されたパフェの写真がムードボードの雰囲気から外れているのではないか、という指摘がなされている。この件に関しては、写真の彩度、明度、色温度などを変更する加工(レタッチ)で雰囲気をムードボードに寄せることや、キービジュアルとして撮影された数枚を使用しないなどの決定によって対応することになった。しかし、トンマナからの逸脱問題はこれだけでは終わらない。各種デザインの制作が進み、第一段階のフィードバックを返す段階(上がってきたデザインの良い点と悪い点をそれぞれ指摘して改善していくプロセスのことを指す)になって、トンマナからの逸脱が認められるデザインが多く作られてしまっていることが判明した。5月5日には緊急でトンマナの修正と、トンマナに関するより細かなルールの策定を行う会議が開催されることになった(こういうロゴと背景の組み合わせをすることは禁止、こういうデザインのアプローチは許容などのレギュレーションをより細かく、個別に判断していくことが行われた)。それだけ、トンマナの逸脱は重大なインシデントとしてdp9に所属するデザイナー達に認識されていた。制作するデザインの統一感が無くなることが直接クオリティの低下に結びつくこと、その逸脱は制作を統括する側のミスとして捉えられたことが、トンマナ修正会議に流れていた重苦しい空気の原因だっただろう。(余談だが、入会して1か月も経っていない中でこの会議に参加した筆者は相当緊張した。正直にいって「トンマナ」がこんなにも厳しいものだとは思わなかった、という感想を抱いたことを覚えている。)
なぜ、こうしたトンマナからの逸脱が起きたのか。五月祭の終了後に当時のことを分析した資料が団体内に残っている。そこでは、トンマナを緩めにとっておき、良いアイデアが出てきたらそれを反映しつつ次第にトンマナを細かく作っていくという当初取られていた方針が、トンマナからの逸脱を招いた原因として大きいとされている。つまり、最初にルールを緩くしか定めていなかったことで、トンマナを覆す、あるいは訂正する可能性が存在してしまっていた。そのことが各メンバーの自由度を高め、各々が自分の勝手なイメージと裁量で様々なデザインを作る自体を招いてしまった、と結論づけているということだ。その対策として、次回以降はロゴや色の使い方などをデザインを統括する人がまとめた状態で提示し、それをコピーするような形でデザイン制作を行ってもらうことが提案されている。
「U A Peach」の地盤はどこにある?
ここから何が言えるのか考えてみよう。注目に値するのは、トンマナからの逸脱が起きた原因が「トンマナの転覆可能性」に求められていることだ。つまり、五月祭の反省の段階では「あれもできるかもしれない」「こういう表現も可能かもしれない」と思ってしまう余地があったこと、そのこと自体がトンマナからの逸脱を招いたと結論づけられている。これは確かに納得度の高い結論だろう。4月に入会してきたばかりの新入生が多く制作にあたっていたため「トンマナを守ること」に対する意識が緩かったことも、その一因かもしれない。しかし、ここでやりたいのは五月祭の反省会を続けることではない。
逆に考えてみよう。「あれもできるかもしれない」「これもできるかもしれない」と思えてしまったことが問題であったなら、トンマナに求められる機能とはデザイナーに対して「これしかできない」「できることはこれしかない」と言い募り、より高い強制力を発揮することだ。
だとすれば、むしろ気になるのは「このとき、トンマナの強制性と正当性はどこから調達されているのか?」という点だ。もちろん、トンマナにはそれを定めた人間が存在する(dp9で言えばデザイン班のリーダー)が、「その人がトンマナをこう定めた」というだけでは強制性は足りないだろう。リーダーといっても、便宜上の役職として置かれているにすぎないし、U A Peachの例で見たようにそれでは「あれもこれもできるかもしれない」というトンマナに対する解釈が生まれ、そこにトンマナをひっくり返す可能性が生まれることを阻止できない。ということは、トンマナの強制性、あるいはその正当性を調達するには、何か別の判断基準のようなものが必要とされるだろう。
その別の判断基準、トンマナの正当性を保証する審級として挙げられるのはやはり「ブランディング」ということになる。つまり、ブランディングを反映しているからこそ、トンマナには正当性が生まれる。確かに、これは穏当で納得感のある解答かもしれない。しかし、思い返してみよう。この正統性の拠り所となる「ブランディング」は何に依拠してなされていたか?先程見たように、「U A Peach」のブランディングはColor of the Yearの「Peach fuzz」という色に込められたメッセージを解釈することで生まれている。つまり、トンマナに正統性を与えるはずのブランディングは、最初から「『Peach fuzz』がColor of the Yearである」という外部の規定に依存しているのである。そして、よく考えてみれば、「Peach fuzz」がColor of the Yearであることに理由は無い。全く理由が無い。もちろんPANTONEはこの色を選出した理由を公式サイトに載せて滔々と語っているが、そのステートメントと色の結びつきの必然性などなく、そのステートメントが今年にマッチすることの必然性もどこにもないだろう。
だから結局、整理すればこうだ。U A Peachのトンマナは、その正当性をU A Peachのブランディングに負っていた。そして、そのブランディングはColor of the Yearに基づいて行われた。しかし、当のColor of the Year自体は何の必然性も無い、無から湧いてきたかのように提示されたものでしかない。「Peach fuzz」が今年の色であるのは究極的には、「PANTONEがそう決めたから」としか答えようがない。そのことを最終的に基礎づけ、必然性をもたらしてくれるものはどこにもない。U A Peachのトンマナを支えていたのは、虚空の中に突如として非意味に築かれた小さな足場でしかなかった。
02:ルジャンドルの「ドグマ」とトンマナ
ドグマとは何か
このことの意味をもう少し考えてみよう。なぜ、こんなことが起きているのか。なぜU A Peachのトンマナは、このような形で作られるしかなかったのか。
このことを理解するために、哲学者、千葉雅也の論文「儀礼・戦争機械・自閉症」(千葉, 2019)を半分だけ参照する。千葉はここでピエール・ルジャンドル(1930-2023)の「ドグマ人類学」を、「儀礼」とその「非意味性」という観点から解説している。
ルジャンドルによれば、人間理性の本質とは「なぜ」を問い続けることにある。先程みたU A Peachの例で言えば「なぜ、そのトンマナなのか」「なぜ、そのブランディングなのか」「なぜ、今年の色はpeach fuzzでなければならないのか」……。こうした問いは理論上、根源的な理由を目指して無限に遡行することができる。しかし、我々は事実として、その永遠に続く「なぜ」を追い求めることはしない。逆に言えば、どこかで「これ以上は遡らないことにしている理由」を作っている。この「これ以上は遡らないことにしている理由」をルジャンドルは「ドグマ」と呼ぶ。
ルジャンドルの理論の核心は、この「ドグマ」が人が生きていく上で不可欠のものである、と喝破するところにある。千葉は、ルジャンドルのドグマを巡る理論などを背景にしながら、別の論文でこう述べている。
考えすぎること、「なぜ?」を問い続けることは、行為を停止させる。あるいは「私達は一体何のためにこんなことをしているんだろう」というような実存的な不安を引き起こす。逆に言うならば、「ドグマ」によって思考停止すること、「そうなのだからそうだ」という非意味で理由の無いトートロジーによって「なぜ?」の問いの連鎖を止めることで初めて、生きたり、行為したりすることが可能になる。
トンマナ=ドグマ
この「ドグマ」という概念を利用すると、なぜU A Peachのトンマナは、Color of the Yearという非意味なものに依存する形で作られるしかなかったのか理解することができるようになる。デザインを制作するとき、権利上そこには無限の可能性がある。色の使い方、フォントの選び方、あしらいのつけ方……。その無限の可能性は統一感のあるデザインを様々な媒体で展開しようとするときの大きな障害になる。そして、たとえデザイン班のリーダーが何らかの決定を下したとしても、そこにはその決定がひっくり返される可能性は絶えず存在してしまう。「なぜその決定が成されたのか?」「なぜそのデザインで行くのか」「そもそも、そんなコンセプトで進めていくべきなのか?」などなど、そうやって無限に続く問いかけをすことができる。そして、そうした無限に遡行する問いは、そもそもデザインを制作するということ自体をストップさせてしまう。
だからこそ、Color of the Yearに頼ることが必要とされているのだ。それは、「ドグマ」を打ち立てる行為なのだ。「Color of the YearはPeach fuzzである」という「そうだからそう」という異議申し立てすることの出来ないテーゼを基礎に据えてブランディングをすることが、「なぜ?」の無限遡行をブロックする。千葉の言葉を借りるなら、そのことによって「頭を空っぽにして」デザインをすることができる。
そう考えていけば、「トンマナ」もまた一つの「ドグマ」であるということができるだろう。トンマナを共有することで、デザインの可能性は狭まる。それは、より頭を空っぽにしてデザインに向き合えるということでもあるからだ。ただし、そこで作られる「トンマナ=ドグマ」は、「ブランディング」そして「Color of the Year」というそれより上位のドグマによって支えられているいわば「二次的なドグマ」なのだ。
03:まとめ、あるいは別の問題へ
美的なものとしてのドグマ
Color of the Yearという「そうだからそう」という非意味に設定された色を基礎に据えながら、ブランディングをして、トンマナを作る。それはドグマを打ち立てる行為なのだ。デザインをするには、トンマナというドグマが必要である。思考停止しなければ、Adobe illustoratorに向き合うことができないからだ。
もう一つ、ルジャンドルの「ドグマ」という概念には、トンマナと深い関わりを持つような性質がある。それは、ドグマはドグマとして受け入れられるために人々にそれを信じさせる魅力を持たなければならない、とルジャンドルが述べていることだ。ドグマがドグマとして成立するためには、誰もそのドグマの根源的な理由を問わないままでいることが望ましい。そして、その状況が成立するためにはドグマ自体が人々を魅了する「感性的=美学的なもの」でなければならないのだ。
物凄く雑にパラフレーズするなら、これは「多くのデザイナーが「良い」と認めないようなトンマナでは、ドグマとして機能しえない」という話でもある。
次のコンフリクトへ(?)
ここまで、U A Peachのトンマナを巡るコンフリクトを分析することを通して、「トンマナ」を作ることが、「ドグマ」を打ち立てることだという定式を作り出すことを行ってきた。面白いのは、「トンマナ」を巡る小さな(すぐに忘れ去られそうな)コンフリクトにさえ、こうしたある種の政治を巡る問題を見出すことができるということだ。
僕はこれからも、もう少し、このサークルでデザインを作る際に生まれる不和や習慣やメンバーの間に生まれる摩擦をある種の民俗学として観察したいと思っている。dp9はこれからも五月祭に出店していくだろうし、これからも沢山のトンマナを定めていくはずだ。そして、沢山のコンフリクトとすれ違いと修正を重ねていくことになるだろう。もちろん、全てが恙なく進行していくことが理想ではあるのだけれど、心のどこかで、今回みたいなすれ違いを再び観察したいとも思っている。
だって、それが面白くて、人とデザインするなんて奇特なことをやっているのだから。
参考文献・註
参考文献
千葉雅也, 2019, 「儀礼・戦争機械・自閉症―ルジャンドルからドゥルーズ+ガタリへ」, 『ドゥルーズの21世紀』, 河出書房新社
千葉雅也, 2018, 「意味がない無意味―あるいは自明性の過剰」, 『意味がない無意味』, 河出書房新社
PANTONE, “Color of the Year 2024”, PANTONE, https://www.pantone.com/color-of-the-year/2024, 最終アクセス日:2024年7月30日
註
[1]この文章は、2024年春学期にレポートとして提出された「トンマナというドグマーデザインサークルdp9が祭りをやるとき」を改稿したものです。
[2]dp9について詳しく知りたいという方は、公式サイトおよびTwitterとinstgramをチェックしてみてください