自由空間の対話と創造
いま、この部屋に決めるので家賃を1万円安くしてもらえませんか?
住んでいた部屋や街の環境に納得出来なかったわたしは、いまの部屋を決めるのに25件内覧した。
部屋の条件は「庭のある家」という単純な依頼内容だけど、ひとり暮らしの賃貸で庭はほとんどないし、あったとしても物件情報に記載されない。たまたま出会った不動産屋が、いまの家を知っていて案内してくれた。
自宅は昔邸宅だった家の庭をそのままに、アパートに建て替えたもので、近所にもそういう物件がいくつかある。
近くには3代続く古本屋があり、映画や音楽、詩や建築の専門書、サブカル系の漫画が売られている。時々文化人に献本された宛名つきのメモが挟まっている。コンビニはあるが、チェーン店がない小さな街。
そして、羽根木公園という20分あれば一周できるほどの、散歩にちょうど良い公園がある。
もともと有名な鍛冶屋が所有する小さな山を公園に改良したらしい。朝から夕方まで、多くの人が植物や鳥を眺めたり、散歩したりと憩いを求めに訪れる。園内には図書館があり、調べ物によく利用する。
わたしは仕事柄、人が物質の情報をどのように受け取るのかを心理学的に理解するアフォーダンスや、物質や空間がどのような情報出して人間を変容させるかを探る物理哲学に興味がある。
前者は使い手の思考や行動を制限することも多い。
たとえば、他者を意識するよう意識させる心理操作を取り入れると、それに埋没した人間の心は前に後ろにと動かされ、承認や建前ばかりを意識した視野の狭い行動をとってしまう。しかし、たとえ制約の多い世界でも、後者の物質や空間が出している情報に敏感になることで、〈ものやこととの対話〉が可能になり、見える世界が増えると思っている。
見える世界が増え、世界の中から真実を探し出し、取っておくに値する部分があるか、忘れるべきか、自分で決めることが出来れば、〈選択肢が増える〉という意味で豊かになるかもしれない。
※
羽根木公園を、図書館のある方向へ坂を下る途中、プレイパークが現れる。公園の4分の1に満たない大きさの公園は、そこら中に穴がほられ、樹木の根が張り出していてデジボコ地面だ。水場、出しっぱなしの水道、すべて手作りの ── 滑り台、シーソー、ターザン、坂の形状を生かした急流滑りが点在してる。
2021年4月7日午後の公園は、何をしているのでしょうか。どんな感じだろうと気になって覗いてみた。
子供たちは、個人的な趣味をいくつか持っていたとしても、生活のすべてを捧げるような趣味ではないようだ。学校や家では周囲の子供と同様の生活をしている様子だ。
屋根や電灯、木を渡り歩く子が、頭上を通りすぎた。焚き火をしている子が、火の勢いを増すために必死でうちわで仰いでいる。フライパンを片手に持った子供が、滑り台を逆さから登ろうとしている。汚れすぎたのか、パンツを履いていない子供が親と焚き火で芋を焼いている。網はステンレスのラックを利用している。
屋根に登っている子供は、秘密基地を作って遊んでいる。子供に囲まれながら、真剣な表情でのこぎりを使って木材を切っている大人。いつもどおりの光景が転がっていた。
夏には滑り台にビニールシートを敷き、ホースを木にぶら下げて、上から水を流し、ウォータースライダーを楽しんでいる様子も見れる。
プレイパークに集まる子供は、近くにある普通の公園の子供に比べ行動範囲が広い。そして、いつも何かしらの遊具作りを手伝ったり、側で見ているためか、素材や材料との対話がうまいように思う。
側にいた大人に聞いてみると、どこまでも高いところに登ってしまい、叱られてしまうような子供が遊びに来ているとのことだった。確かに高いところに登ると怪我をする可能性が高いため、危険ではあるけれど、それ自体が悪いことではない。話を聞きながら、子供の思考を奪うルールを解体し、組み替えたいと思う人たちが作っている公園だと理解することができた。
※
わたしはコロナ前までは都市の中心に仕事スペースを借りていて、散歩ついでにギャラリーに出向き、作家と雑談をすることが多くあった。たいてい話す内容は、制作を始めようと紙をコツコツと叩いた時に、今の自分には紙との対話が難しいことがわかり、絶望したという制作の中でのアフォーダンス的な話や、人間以外の物質やものごとをどういう風にとらえ、消化したという話をすることが多かった。日々仕事に追われる中で、作家との会話が大切な息抜きになっていた。
1ヶ月前の2021年3月13日の土曜は少しだけプレイパークに参加することができた。朝から小雨が降り注ぐその日は、AppleにPCの修理に出す予定だったので、いつものように少し早めに家を出て公園に寄り道をした。平日の雨の日は、水の掛け合いをしたり、火を炊いている常連の若者がいるけれど、その日は若者の姿はなかった。
しかたなく公園を満喫しようと、雨で湿った土の感触を楽しみながら急流すべりを歩いて下っていると、ぬかるみに足を取られて、逆さ上がりをするように派手にひっくり返ってしまった。とっさにロープを掴んだが撓んでしまい、もう一度転んでしまった……。手作りの遊具に使われるロープはしっかりと結ばれているのに、わたしが掴んだ進入禁止用のロープは、ただの飾りなのかと思うくらい意思の弱い境界線用のロープだった。
おかげで、コートもかばんも靴も泥だらけになり、水場で泥を落として、公園の焚き火で乾かすことになった。
水場で衣服についた泥を落としながら、周囲を見渡すと、人がいない公園の遊具は通常の公園の遊具らしさを様しないことに気づいた。一般的な公園にある遊具ではなく、木材やロープを使った手作りのプロトタイプ遊具しかないのだ。そのため、新入りの子供は、どのように遊んでいいのか認知しつらいのではと思った。
プレイパークの由来を調べてみるとは、1931年のロンドンが始まりのようだ。台風で倒れている木に子供たちがかけより、自分たちで落ちている木と木を組み合わせてシーソーを作って遊んでいる姿を、ソーレンセンという造園家が見かけたのが始まり。それをきっかけに12年後しの1943年、戦時中のデンマークで子供の遊び場を儲けようと、廃材を使った公園が出来た。そこでは、子供が廃材を使った遊びを発見するまで、大人は手出しをしないが、聞かれたら手伝うということをしていたようだ。
廃材や自然の道具を使ってものを作るということは、うまく行かないことも多い。世間的なルールを疑い、自由をうたう公園だけど、素材や材料との対話の中で人間の自由にならないことを知り、自分で知性を得ているのだと思う。
わたしはそんなふうに現実に触れれているだろうか。ここ最近は集中力もないし、内省ができず、自動化された生活にも大分慣れていると思う。
泥を洗い流した衣服を持って、焚き火にあたりに行く。母親と子供、そして20〜30代くらいの男性がいた。緊張感ある距離を保ちながら、焚き火にあたりつつも気の利いた会話ができないため、どのラーメンがおいしいかという、なににもならない話をした後は、無理に話すこともかった。コートが半乾きになり、さよならを告げ、別れた瞬間に緊張の糸がほぐれるのがわかった。
※
アメーバだったら、こういう時にどう行動しただろう?
アメーバは、たとえば、泥だらけの服を洗い、火を使って乾かし、側にいた人に適切な対話をする可能性は、積極的なアメーバがいたとしても、知覚や認知能力の水準からいって不可能に近い。
人間がその種の知覚をすることが出来るということは、水や火を危険が及ばない範囲で、適切な行動をとる可能性が感じられる。近所なのだから一度家に帰って着替える事も出来たし、適当にコートをクリーニングに出すことも出来たけど、ずっと外から公園の様子を眺めていたわたしは、話つらい人が隣にいて適当な時間を過ごすことになっても、水場で泥を洗い流し、焚き火で乾かすというプレイパーク特有の体験をしたかった。人間は複雑で流動的なものごとから、非常に多くのものを抜き去ること、引き算すること、無視する自由を持っている。
アメーバならそのような自由の振り幅は少ないし、火の熱を感じるまで危険かどうかもわからないと思う。人間は一定の距離を保ちながら検知することが出来て、その上で選択をすることが出来る。
アメーバは冗談だが、この公園に初めて訪れた子供が、周囲に遊ぶ子供がいない場合、どんな遊び方をしていいか迷ってしまう可能性が高い。その様子は箸をはじめて見る外国人のまごつきに近いと思う。
この公園の遊具は、ここにいる子どもたちの記憶が作り上げたものだからだ。素材や材料と向き合う中で気づきを得て、作り上げた遊具ばかりが配置されている。小学生が木登りをして楽しんでいる様子を見て、幼児が大きくなったら木に登りたいと思う。すぐに登りたいなら、足場を作るために相談をする。急流すべりは、お腹にレジ袋を引くことでスピードを増して滑ることが出来る。素材やでこぼこの地面と対話しながら、工夫をして遊んでいるのだ。
近くには普通の公園があり、小さな子どもが集まっている。他の公園の遊具と類似性が高く、迷わずに遊べる遊具が多い。
プレイパークの遊具は難易度が高いものの、雨の日でも遊びに来る子が多い。砂場の砂やブランコをきちんとこぐ遊びよりも、高い場所を渡り歩いたり、少し足りないロープをバランスを崩さないよう必死に手繰り寄せターザンをするため、振る舞いが大胆になるのも楽しいのかもしれない。
わたしがこの公園を気にする理由の一つは、整理が得意な大人が作ったものではないルールのなかで、実践したり工夫したりすることで表出する外し方が面白いと思うからだ。素材や材料との対話は、人間が作ったルールを越えようとする、アートや物理の世界とも似ている。コロナによって、ひとりの時間が多くなった今、他人との関係においてではなく〈現実〉との関連において眺めること。空や木々それ自体を眺め、人間以外の自然のルールの中で実践してみたいという気持ちも強くなっているのもあるのかもしれない。
ものやことと対話しながら紡いでいく世界は、ありとあらゆる想念を生み出すのだ。
【参考】
プレイパーク公式HP:
https://playpark.jp/hanegi/
【子供に遊ぶ権利を】たき火、ノコギリ、木のぼりもできる最高の公園『羽根木プレーパーク』を世田谷区民が守り続ける理由:https://rocketnews24.com/2019/07/31/1223150/
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?