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他人の不安をわざわざ持ちに行く
『自分の心配事を自分で持つ。』
というnoteを2018年に書いている。
この時、私は、自分の不安すら自分で持てなかった。そりゃあ、離婚したいかすらも自分で気付くわけないよね。
そう考えるとだいぶ進歩しているな。なんで自分の不安を自分で持てるようになったんだろう。途中経過を全然noteに書いてなかったのを悔やむぐらいだ。
私の母は、自分の不安を自分で持てないので、何か心配事があると連絡がくる。その度に、イライラモヤモヤしてたんだけど、ある時から全然平気になった。
私が「母は母親らしく、子の悩みなど聞いて欲しい、母が子に悩みなど相談してほしくない」という理想像を持っていたから苦しいのだなと気が付いたからだ。
母は母なのだ。私の理想像にはたぶんならない。私の理想像は私がなればいいだけだ。
母が自分で母らしいと思って過ごしていればそれでよいので、母が不安を自分でもてなくてもそれは母の問題なのだ。これは母以外のいろんな人に当てはまる。だから、この理屈からいくと「かわいそうな人」は存在しない。気付くタイミングも、自分の苦しみを大事に抱えている人もそれはそれで、その人の学びなのだから。その抵抗を楽しんでいるのだから。
そう、で、いま、私が住んでいる富山県は、豪雪で、地区によっては休校になったり、お店の営業を見送ったり、会社も休みになったりするところがあるぐらいの豪雪。
母から雪が心配だとラインが来た。そういうのは大概放置してきた。大丈夫、ぜんぜん大丈夫。って、だけど、昨夜はあんまりにも雪がすごかったので、思わず、どれだけ積もるかわからないなと送ってしまった。そうすると、朝の4時に雪が心配で目が覚めました。と、ラインが来た。
自分の不安を自分で持てないくせに、なんでわざわざ他人の不安すらも持ちに来るの?その心は何?っ前までは思ってたけど、違う。
身体に、何かの「不安」が残っている。それを感じ切ってないから、身体が感じ切れよ!って目の前に不安が沸き起こってくる。感じ切るだけでいいのにね。でも、わかんないよね、これ、
これ文章にしたい。
けど、上手く書けないな。
だから演劇のワークショップでやろうと思ったんだな。
演劇は道具だ。
ゲシュタルトセラピー受けてみたいとずっと思っていて、多分、ゲシュタルトセラピーは演劇を使ったドラマセラピーだよな〜と思っている。
ここで諦めず、もうすこし言語化を試みてみる。
過去のネタ帳・内観ノートを読み返していたら、おもしろいメモがタイミング良くでてきた。
私が目醒めないでこの世界にいてもいいと認めるために現れた存在。
目の前に現れる存在は、
不安の人もいれば、悲しみの人もいる、孤独感の人もいる。
私の母は、不安を大事に握っているのだ。
自分で心配事を持てないのは、かわいそうな自分でいるとメリットがあるからだろう。
不安は死ぬまで握っているのかもしれない。でも、母に対して、私にできることはほとんどない。握っているものを、私が奪い取ることなんかできないのだから。
その人自身がそれを起こしている。その人がその抵抗を楽しんでいるんだなってそれだけ。
私は不安を長い間大事に握ってて、悪戦苦闘したので、今やっと説明ができる。
時々まだ不安がたちのぼってくることはあるけど、その時に、私がまだ感じ切ってないカケラが肉体にあったんだな、と気付いたら、なるべく思考を停めて身体を感じるようにしている。
コツコツと日々、地道に進んでいくだけだ。