映画『すばらしき世界』をみての雑記と鬱病の話。
ある日、とつぜんやってきた死にたい病。
数年振りの、けっこうな大きな波の死にたい死にたい死にたい病。本当は、死にたいは正しくないんだ。誰にも迷惑かけず消えてなくなりたい欲求。
あーこれ、精神科にかかったら、鬱病って診断されるんだろうなーと思いながら、身体はうごかない。
何もやりたくない。
騙し騙し日々を過ごす。
とりあえず人に会いたくない。
できれば誰にも会いたくない。
だけれど、場合によっては出かけた方が楽になることがある。
前に、ブラック企業で働いてた時、店長がお店で過呼吸おこしてぶっ倒れて、その後、なんか、鬱病らしいよみたいな話(今思い返せば、パニック障害とかいろいろありそうだけど)になって、だけど職場にはこれなくても、おでかけはできるらしい。
近くの川辺を歩いてたよ?とか
映画かなんかも観に行けるみたいよ?おかしくない?って他のスタッフに言ってたけど、
仕事には行けないけど、遊びには行ける鬱病の症状について言及している本なんていまは腐るほど売ってるのに。六年前(2015年)はあんまりなかったなように思う。ただ自分が知らなかっただけかもしれないけど。
店長の気持ちが今だったら本当によくわかる。
あの時、仕事にこない店長が、ちょっとムカついちゃったよ、ごめんね。
みしらぬ富山って地で、かつ、20代で店長って重荷だったろうに、私の中の正義を振りかざして、何も配慮できなくて、本当に、ごめんね。
やっと、元店長に対して、優しい気持ちになれる自分がいるよ。
六年かかってようやく、ブラック企業も元店長もゆるせる気持ち。長かった。
あの時、ブラック企業に身体も心もメタメタにやられたのは私もで、私も鬱病になっちゃって、しっかり精神科で鬱病って診断されちゃって、
しかし薬を飲んでも苦しくて
(話が脱線しすぎるので、鬱病の私はまた別記する)
そう、今回、六年振りに鬱病になって、私は、仕事や家事が思うようにできなくとも、映画を観に行こう!と目的があると動けた。
それが『すばらしき世界』だ。
平日の昼間に映画館だったら人と会うことはないだろうって
いまこの1行書いて思う。
私の中の「人」っていうのは、私を知っている人なんだな。
私の「何を」知っている人に会いたくないんだろうか。
だって、映画館にはそりゃあたくさんの人がいる。
映画館のスタッフをはじめに映画を観にきた人とか、ポップコーンを売ってる人やら、パンフレットの物販を売っている人やら、
とりあえず、まあ、ひどく死にたい病だったけれど、映画を観に行きました。
西川美和監督の待望の最新作『すばらしき世界』
主演、役所広司
脇をかためるのは
仲野太賀、六角精児、北村有起哉、白龍、キムラ緑子、長澤まさみ、安田成美、梶芽衣子、橋爪功
という、すばらしいキャスティング。
脚本やスタッフワークなどなど、キャストへの演出のすばらしさって、今までの西川美和監督の映画を観て信頼しまくっていて、だから期待値高めで映画館へいった。
そして今回は特に役所広司がそりゃあもう圧倒的なのとかって、みんな書きまくってるだろうから
私は私の切り口で書くぞ。というわけで鬱病にフォーカスした。
役所広司扮する三上は、殺人という罪を犯した元ヤクザだ。
ヤクザとアーティストって似てるよなあと思う。
ある時、「私は結局、娑婆の生活はできないんだなあ」ってこぼしたら、えー娑婆って、愛ちゃんヤクザだったん?って友達に言われたことがある。
うん、劇作家ってヤクザな職業だと思う。
演劇だけじゃない、音楽でも美術でもなんでも、アーティスト、芸術家全般。
もちろんアーティストでもめちゃ社会性ある人もいるだろうし、全員がヤクザってわけじゃないけど、
いわゆるみんな「普通」じゃない。
普通からピョコンって飛び出している部分が、音だったり、絵だったり、文字だったり、声だったり、表現するなにかだっていうのは、それぞれで。
ピョコンが表現するものだから、アーティストなだけで、
本当は誰だって「普通」なんかない、みんなバラバラな特徴があって、みんなピョコンって飛び出る何かがある、だけどそれをなるべく目立たないようにする「空気」。
平均的な、突出するものがない、普通がよし、みたいな教育、世間様の目や、空気に支配されているだけだと思う。
そういうの古い教育だと思う。
それに反発したい欲求がすごい強い。
じっさい、私は普通を強要されるのがだいきらい。
役所広司扮する、三上もそうなんじゃないかと思った。
ここからネタバレあり、映画まだみてない人は気をつけてください。
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普通を強要される生活に馴染めないで苦しむ三上の背中をみていて、私の心は痛かった。
あれは、私だ。
何回も何回も失敗する三上。
それを支える人たち。
私はどっちにも感情移入できた。
犯罪を起こして、刑務所からでてきて、排除される側も、その人たちを排除する側も、
元犯罪者をネタとして消費する感動ポルノ側も。
だけど、当たり前だけど、人に出会って変化していく人たちもいる。変化しない人もいる。
人間だもの、いろんな人たちが葛藤や矛盾をもって生きていく。
西川監督の作品にはごちゃまぜにいろんな人が登場する。
人の善意や、目を背けたくなるような醜い感情もすべて、ああ、なんと人間は美しんだろうと、西川監督の映画を観るたびに心震わす。
『すばらしき世界』を観て、「正義」や「普通」とは何なのか、改めて考えるきっかけになった。
三上は正義の使い方が独特。
いわゆるヒーローが正義をふりかざすとも違う。ピュアで未熟で、とても暴力的な正義。
度重なる失敗から、支えてくれる人たちを裏切らないために、三上は自分の人格を捨てる。
三上が社会に「普通」に適応するために。
三上が自分らしい怒りの表現を押し殺したシーンの脚本のト書きを抜粋する。
頬を震わせ笑顔を浮かべて見せる三上。社会に適応するために、人間性を捻じ曲げた
私はそのシーンを観るのがめちゃくちゃ苦しかった。
三上にはそんなことやってほしくなかったって気持ちが湧き上がってきた。
私も三上のように
社会に適応するために、人間性を捻じ曲げて、生活しなくちゃならないのだろうか?
時々だけどそうするときがあった。
例えば、「子のため」にそうしようと思い込んでいた。
だけれど、そんなことないなーと
私が捻じ曲げていること、我慢していること、
子どもって、いとも簡単に見抜くから。
私の辛抱している苦しそうな感情にフォーカスしちゃうこともあるから、それはまわりまわって子には悪影響かもしれない。
そんなことを感じるようになってから、捻じ曲げないけど逃げる方法、かわす方法を身につけてきた。
社会適応能力が私より高い夫にお願いするとか。
けど、その時の三上は周りに頼れる人もいなくて、ねじ曲げて嘘笑いするしかなかった。
そのあとに、みんなに散々ばかにされていた安倍が三上にコスモスをくれるところで、私はもう大号泣した。
だからその後、阿部がくれたコスモスを握りながら、息をひきとる三上をみて、悲しかったけれど、私はちょっとホッとしてしまった。
もう三上は、これで苦しまなくていいんだな、
三上が失敗するところをみなくていいんだな。傷つくところをみなくていいんだな。
こんなクソみたいな社会に適応しないでいいんだから、三上はそっちのがいいんじゃないか。周りのみんなもホッとしたでしょう。
っていう考えが頭によぎって、びっくりした。
まあ、いま振り返って、なんと鬱病らしい解釈というか。
この文章、途中までは鬱病のしんどい時にざっくりと書いて、
なんとか頑張って書ききろうとしたものの、けど、やっぱり途中で力尽き、放置されていた。
六年前の鬱病の時に、助けてもらったとある療養施設に今月頭に再び療養して(これも前述した鬱病についてのnoteに追記したいと思っています)
生きる力が戻ってきて、文章も以前のように書ける力がもどってきて、書いている。いま。
元気って「元の氣に戻る」が語源だとか、療養施設の先生が言っていた。
鬱状態の時に頑張って書いていた自分を褒めたい。感情って時間がたつと忘れていってしまうものだ。こんなこと考えてたんだなー。自分の感情なのに、おもしろい。
元気になった、今、私は、
三上は生きていて欲しかったなと思う。
というか、これは三上じゃなくて私だ。
もう苦しみたくない、失敗したくない。傷つきたくない。弱者やヤクザをバカにして、叩ける人をみつけたら叩きまくる、不寛容なこんなクソみたいな社会に適応したくない。
私がいなくなったほうが、周りのみんなもホッするでしょう?って、思っていた。
だけど、いま、私は、どんなに苦しくても辛くてもその感情を味わえばいいのだなと、思う。
「自分の腹に嘘をつかない」生き方をすることができればもっと軽やかに生きられるなーと
いまはそれの練習中。
これは我慢していきていく、根性論とかと、ぜんぜん違うので、
それは、鬱病のnoteとはまた別に、戯曲かエッセイかコラムかなにかに落とし込めたらなと思う。
いろんな人がいろんな生き方をしていい。寛容な社会になるように働きかけ続けるような作品を作り続ける。
『すばらしき世界』キャッチコピーは、
この世界は生きづらく、あたたかい。
だ。本当にそうだよなー。
もうすこし息がしやすい世の中になることを働きかけるために文章を書いている、私は。
時に、世界中のすべての人のしあわせを願わずにはいられない。
それは、ああなんと、すばらしき世界じゃないか。
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