人が子どもに期待するもの
”世界の教養” 宗教5週目はサラの話。まだしばらく西洋の神の祖の家系の話が続くのかと思うと、ちょっとげんなり。。
でも子どもについて考えさせられた。
アブラハムがサラを大事にしたのは、美しいからか、能力が高かったからか、恋愛によるものか、よくわからないけれど、男女の仲の理由は人によっていろいろあるだろう。
でも対象が子どもとなると、求める理由が限られてくるような気がする。
最初、サラはアブラハムの子孫を残すために、ハガルとの間に子どもを産ませることを承諾した。自分の夫の子孫を残すことを優先し、(アブラハムとハガルの)子どもに夫の種を期待した。
このような子孫を残すことを子どもに期待するというのは、昔からよく見られるものだけれど、見方によっては、家系を気にしすぎる感があり、個人を大事にする今の時代からすると古っぽい。でも、実は他の生き物(動物も植物も)は、子孫を残すことはおそらく優先順位として最高位で、その視点から考えると、実は動物的に正しい行動なのかもしれない。
でも結局、サラは嫉妬からハガルの子を追放し、自分から子ども(イサク)が生まれることを喜び、イサクが生きていたことを知った喜びのあまり、自分は死んでしまう。
これはイサクに対するかなりの思い入れがあるからだろうけれど、それは、自分が産んだからだろうか、アブラハムとの間の子どもだからだろうか。どちらにしてもサラ自身が関わっているということの意味は大きく、今の女性の感覚からすると、自分の腹を痛めて生まれてきた子どもということで、自分の分身のような、自分の存在価値を示すことを期待している部分もあるのではないだろうか。表現の適否はあるとしても、このようなサラのイサクに対する思いは、今の時代はかなり共感を得られるように思う。
でもさらに進んで、いわゆる社会的養護の子どもの場合はどうだろう。
まったく自分と血はつながっていなくても、家族として育てたいと思う人がいる。そして、それによって実際に血を分けた家族と同じように、あるいはそれ以上と言えるくらいに、子どもに思い入れを持つ親もいる。このような、たとえば養親の養子に対する思いは、もはや何も期待していないのではなかろうか。将来の扶養を期待するものとしては、先行投資の金額が大きすぎる。金額の問題だけではないとしても、子どもを信頼できなければ、家族として迎い入れることはかなりハードルが高い。こんな、客観的に見ればデメリットやリスクがある養育を引き受けるというのは、ある意味合理的とは言えない。
でも、そんなマイナス感を蹴散らして、子どもを養育する人がいる。それはひとえに、親を必要としている子どもがいて、そのような子どもを受け入れて一緒に家族を作りたいという、一途な気持ち。子どもにもはや何も期待しない、とても純粋な個人と個人の結びつきだと思う。
残念なのは、このような純粋な養親の気持ちを踏みにじる、社会的養護を進めようとする行政の態度。子どもの行き先を決めるのは自分たちだという思いだけで動き、子どもを「人」ではなく「モノ」のように扱う。ここでは子どもは将来の社会の担い手という期待すらない。
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