【直違の紋に誓って】第三章 若木萌ゆ~雨の田原坂(1)
二十日。まだ薄暗いうちに、剛介は起床の喇叭の音で目を覚ました。営舎の片隅にある時計を見ると、午前四時であった。外は、昨夜からの雨がまだ降り続いている。
午前五時に慌ただしい朝食を済ませると、抜刀隊はそのまま出発となった。抜刀隊の受け持ちは、前軍の先鋒である。
「今日は、銃を携行せよ」
出発前に、川畑警部からの注意があった。今まで抜刀隊は白兵戦を演じてきたが、その段階の終わりを見越しているような命令だった。
二俣口より渓谷を渡り、本道の横にある坂道を過ぎて藪の中に身を潜めて、剛介達は静かに進撃の合図を待った。昨夜からの雨はまだ降り止まず、容赦なく制服の厚地を通して染み込んでくる。体が冷えてくるのが感じられるが、今は声を上げることすら出来なかった。
やがて、雨の空が白っぽくなって来た頃に、薩摩兵が坂の上に姿を現した。時刻にして、午前六時。夜が明けるのを待っていたかのように、号砲が立て続けに三発響き、それを合図に戦闘が開始された。
第二連隊の近衛兵が銃を撃ちながら前進して前塁に迫る。その砲声は山をも振動させるかと思わせられるほどの響きを伴っていた。砲兵もまた後塁を襲撃し、前軍を援護する。硝煙と霧が混じり合い、前方がよく見えない。それを奇貨として、抜刀隊を含む前軍は、たちまち右翼の第一線の敵塁に迫った。硝煙と雨の中で、薩摩兵は狼狽しているのだろう、官軍のいないところを銃撃する者もいた。
政府軍は勢いに乗じて、縦横無尽に突撃を繰り返して薩摩兵を斃していく。辺りにはたちまち数え切れないほどの屍が折り伏せるように散らばり、道を塞いでいた。坂の脇を流れる濠は真っ赤に染まっている。残っていた薩摩兵は、この地を支えきれないと見たのか、塁を捨てて退却していった。
この頃になると、既に夜が明けて、霧も晴れて雨は小止みになっていた。官軍は薩摩兵の屍を踏み越えて、田原坂を上っていく。その時、田原坂の頂上にいた薩摩の哨兵が慌てて逃げていくのが、剛介の目に入った。入れ替わりに、官軍の黒色の制服を纏った一人が、隊旗を翻す。同時に、喇叭の音が高らかに鳴り響いた。田原坂が、遂に官軍の掌中に落ちた瞬間だった。
剛介が田原坂の山頂から振り返ると、そこには曲がりくねった坂道が延々と続き、その道を塞ぐように、数多の屍が横たわっているのが見えた。
警視隊を始め、各旅団に休んでいる暇はない。右翼の先鋒諸隊は、逃走する薩摩兵を追って、そのまま植木駅に雪崩込んだ。
時間は既に十一時である。薩摩兵は、田原坂が峻嶮なのに安心しきっていたのだろう。田原坂を越えた所に広がる植木の本営には、警備が置かれていた形跡がほとんどなかった。輜重を撤収する暇もなかったと見える。
「何だか呆気ないな」
隣を歩いていた宇都が、苦笑した。剛介も、同感だった。一昨日まで、必死で切り結んでいた相手が簡単に逃げてしまうというのは、どうにも手応えがない。だが、油断は禁物だろう。
第二旅団の将校の一人が、剛介らを手招いた。
「何でしょう」
「残党の拠点にされては困る。民舎に火をつけてこい」
束の間、剛介は返答をためらって目を伏せた。敗軍として追われていたことはあるが、罪のない者を追い詰めた経験はない。戦に巻き込まれただけの住人の住処に火をかけるのは、気が進まなかった。
だが、隣にいる宇都は特に抵抗がないのか、「分かりました」と返答している。
二人で並んで歩きながら、剛介は釈然としないものを感じた。
「気に入らんか」
宇都が真面目な顔で剛介に訊ねた。
「いや……」
剛介も、頭では上官の言うことは理解している。ただ、幼いころより「武士の役割は民を守ること」と教わってきたためだろうか。無辜の民の家に積極的に火を掛ける気にはならなかった。剛介に甘さが有る点は否めないが、自らの手を汚して民を虐げることに抵抗があるのかもしれない。
「お主も妙だ奴だな。敵兵を斬るのは、平然とやってのけるよっで」
宇都にそう言われると、返す言葉がなかった。理論上はその通りである。だが……。
剛介の感情にお構いなしに、宇都はてきぱきと民家に火を放った。たちまち、目の前に紅蓮の炎が上がる。炎の熱気に押されて、剛介は数歩下がった。明け方まで雨が降っていたせいか、煙がやたらと多く上がり、それが目に染みる。
この植木では、官軍は山砲三門、臼砲一座、小銃一〇〇余挺を手に入れた。
>「雨の田原坂(2)」に続く
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