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【正論やめろよ!】「正論」と「正しい主張」は何が違うのか
「正論やめろよ!」と言われたことはあるでしょうか。もしかすると、言ったことがある人もいるかもしれません。
考えてみれば、これは不思議な言葉です。
素朴に考えれば、「正論」というからには、なにか正しい主張をしているということです。そして、正しい主張は、普通は肯定されるものです。
しかし、「正論やめろよ!」「それは正論だけどさ…」などと発言は、明らかに否定的なニュアンスで使われています。
なぜこのような、一見すると矛盾した発言が生まれてしまうのでしょうか。
一言でいえば、それは、相手の主張を「正しい」と思える理由がある一方で、相手の主張を「肯定したくない」と思える理由があるからです。具体的には、そのような理由は以下の3つに分類することができます。
①言い返せないが、納得できない
②ある意味では正しいが、ある意味では間違っている(そして、ここでは後者の”ある意味”のほうを採用するべきだ)
③言っていることは正しいが、今言うべきことではない
①言い返せないが、納得できない
はっきりと反論するためには、論理的な思考が必要ですが、相手の主張に「何かひっかかるな」と思うだけならこの能力は必要ありません。それゆえ、「反論できないけど、納得もできない」という奇妙な状況が発生するというわけです。
それは単に、自分が擁護したい考えと反しているからなのか、もしくは、相手が分かりにくい間違いを犯しているからなのか(これには②、③も含まれます)、見極める必要があります。
参考
一週間ほど前に投稿されたこの記事では、「正論は、なぜ響かないのか」の原因として次の二つを挙げています。
その正論が本当に「正しい」ものであるかどうかは、人によって異なる
相手の気持ちや状況を考慮していない伝え方をしている
つまり、異なる意見を持つもの同士のコミュニケーションにおいて、自分の意見を強引に主張するという姿勢が、「心に響かない正論」というものを生み出していると洞察しています。
②ある意味では正しいが、ある意味では間違っている(そして、ここでは後者の”ある意味”のほうを採用するべきだ)
社会は、複数の規範が複雑に絡まり合っています。「一見正論のように思える主張」は、様々ある規範の一つを取り出してきて、「その規範だけを見れば正しい」というものが多くあります。
そしてそのような正論は、考慮しなければいけない他の要素が見落とされている場合がほとんどです。
このことについては、名越康文さんという方が重要な指摘をしているので引用します。
なぜ「理にかなった正論」は、相手に「モヤモヤとした感じ」や「なんか違うんだけどなあ」という感覚を与えるのでしょうか? それは、そもそも「正しさ」というのが、普遍的なものではないからだと思います。
(中略)
時間と空間を限定せず、「常に、どこでも正しい」言葉は、少なくとも私たちが使う言葉の中には存在しません。いつもなら納得できない意見でも、ある特定の場においては、「なるほどそうか」とすんなり受け入れられることもある。逆に、「一般的には正しい」言説が、「今、この瞬間」においては、とんでもない間違いだと見なされることもあるでしょう。
名越さんによると、「正論」に違和感を感じてしまう原因は、「その場における正しさ」と、「社会全体での正しさ」にズレがあることによるものだとしています。そして、「その場における正しさ」を無視して、「社会全体での正しさ」を適用することが、「正論だけどもモヤモヤする」という状況を生み出しているというわけです。
これは、ある意味(=「一般的には」)では正しいが、ある意味(=「今、この瞬間」)では間違っているという状況の一例であると言えるでしょう。
③言っていることは正しいが、今言うべきことではない
メタ的な理由により、ある論点をあえて無視するということはよくあります。例えば、次のような場合です。
それを言うと議論が始まらない
それを言うことで誰かが傷つく
議論を特定の方向に誘導したいという動機づけがメンバー間に共有されている
こうした事情があるときに、それを無視するような正論は、たとえ事実だとしても、忌避されるということがあります。
ただし、だからといって正論を控えるべきだと考えるのは早急でしょう。これらのような理由づけによる「正論」の排除は、議論の活性化を大きく妨げることにもなるからです。
空気の読めない「正論」を言う存在は、時には集団での意見の固定化や視野狭窄を回避するために役立ちうるものです。
雑談
呪術廻戦のワンシーンで、自分の正義感を語る夏油傑に、五条悟が次のように述べるシーンがあります
「それ正論?おれ正論嫌いなんだよね」
これは、五条が、夏油の主張は社会正義に照らし合わせれば正しいのだろうということを認めつつ、しかしそれに縛られることは気に入らないという彼の姿勢を表明していると言えます。個人主義の五条にとっては、社会正義はどうでもいいのでしょう。この場面は、私が挙げた①②③の全てに通じるところがあります。
まとめ
①②③は全て、相手の主張が「正しい」と思える理由と、相手の主張を肯定したくないと思える理由、その両方が存在するという複雑な状況でした。
この複雑さゆえに、①②③に当てはまるような相手の「正論」に対して適切な指摘を加えるというのは、単に間違っている主張に反論するよりも頭を使うことになります。
そのため、多くの人が、「それは正論だけどさ…」といった反論にもならない不満感を表出するだけになってしまっているのです。しかし、このような反論の仕方は、相手に「正論の何が悪いんだよ!」と思わせるだけであり、対立以上のものを生み出しません。
もし、誰かが「正論」を振りかざしているように感じたら、1,2,3のどれかに当てはまっているということを言語化して指摘することが重要です。「正論やめろよ」は、反論としてはかなり粗雑なものです。また、自分が「正論やめろよ」と言われたときは、①②③のどれかに当てはまっていないかを反省する必要があります。