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画像生成AI、大好きだが……

私は、AI絶対支持と絶対拒否を両極とする線分を引いたら、中央やや支持寄りにいると思っています。と言っても、AIの利用分野によって立ち位置に違いがあります。趣味で親しんでいる画像生成AIについては、ぐっと支持寄り、仕事で付き合いのある文書生成AIについては、かなり否定寄りにズレます。自分の仕事をAIに奪われる不安があるかないかの違いのような気がします。

そんな私ですが、画像生成AIに対してまったく違和感がないかというと、そうでもなくて、「えっ?」と思うことがあります。そういう感じをうまく言葉にしてくれている記事に出会ったので、紹介したいと思います。

佐藤 芽衣 さんの次の記事です。


 佐藤さんの記事を読んで共感したのは、次の部分です。

「生成AI並にかわいい!」という表現を、とあるテレビ番組で耳にして、その違和感に度肝を抜かれた。もちろん、文脈的には、ほめ言葉として使われている。

生成AIってのは、よく描かれているイラストや現実の生身の人間の中から見てくれのいい人などの特徴を合わせたものなんだから、それを基準にして、人間様を評価するのはいかがなものか。そのときは、そう思った。

ただ、その翌日、電車の中で「あの人、なんか生成AIっぽい顔しているな」と思ってしまったことを認める。つまり、生成AI的な特徴が社会の中である程度共有され、何らかの基準になりつつある。誰のルックスが良いのか悪いのか、生成AIから学び、教育されているなんて、サルトル並に嘔吐しそうである。

佐藤芽衣さんの記事から引用

 
 私も生成AIから学び、教育されていると感じるときがあります。私はAI好きなので嘔吐はしません。ですが、「ちょっと、押し付けがましくね?」という気には、なります。

 Leonardo.Aiに抽象画を提供して ”anime" とプロンプトしたら、雑誌やテレビでよく見るようなアニメキャラを生成してきたときが、そうでした。

 私は、アニメ風の筆致で描かれた抽象画が見たかったのです。それを自分では具体的にイメージできなかったから、AIに描いてもらおうと思ったのです。

 それに対してLeonardo.Aiは、かなり典型的なアニメキャラを返してきました。そのときは、「おぉ、そう来るか」と思っただけでした。

 しかし、時間が経つにつれて、Leonardo.Aiから、こう言われたように、感じ始めました。

「ご存じないようだけど、いま世界で "anime" って言ったら、こういうキャラクター・イラストのことだから。よく覚えといてね」

 それって、AIが「美」の基準を作って人間に教えようとしているのではないか? 私がAIに、そういうことを望んだだろうか? そういう気持ちが後から湧いてきたのです。

 いま、画像生成AIの表現の細密さと美しさの進化は、とどまるところを知りません。ですが、その洗練の先には、実は、意外にもノッペリ均質的な美の世界が待っているのではないか? そんな漠たる不安を覚えることもあります。

 ただ、ここで、公平を期するために言っておかなければならないことがあります。それは、Leonardo.Ai は、そのデフォルトの美意識を私に押し付けてくる一方で、私の美意識も学習して画像生成に反映しているということです。

 結局、画像生成AIと私たち人間の関係について結論めいたものを言うのは、まだ時期尚早なのかもしれません。ではありますが、画像生成AIと付き合っていく上では、時々、自分が美の均質化傾向に飲み込まれていないかセルフチェックしてみることが必要なように思う、今日この頃です。

 ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。


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