見出し画像

②『なぜ愛に傷つくのか』第2章再読


なんとなく要約

第2章「愛の大転換/結婚市場の誕生」を再読し、第3章「献身恐怖症と新たな恋愛的選択の設計」を読み終えたところで、私なりの読みのポイントを整理しておきます。

私が『なぜ愛に傷つくのか』を読む動機と第1章を含めた要約については、こちらから読んでいただけると嬉しいです。

第2章を再読しましたが、結婚市場が近代以前と近代とでどのように質的に変わっているか、を論じている章であるのは間違いないです。近代以前の中産階級における配偶者選択の環境を、ジェイン・オースティンの文学から読み解いていくのがポイントです。映画『説得』を見た感想を後述します。

近代以前は、感情より先に儀礼的な行為があり、それによって恋愛感情が誘発され、集団の倫理によって確認されるものでした。一方、近代以降、恋愛的な相互行為は真なる感情に基づくものとされ、愛情表現が進むにつれて恋愛感情を再帰的に認識し、自分の内面を見つめるものになりました。私が2回目の読みで気づいたのは、この部分です。

さて、近代以降、公的内婚規則の消失と、恋愛的選択の個人化と、競争の一般化とが起こり、性的魅力が果ては「配偶者選択および社会的地位」の基準ですらある「性的界」の誕生を迎えました。メディア・美容・ファッション・映画産業が性を強力に商品化させたことがこの背景にあります。つまり、個々人が性的魅力を磨くことがすなわち欲望可能性を高めることであり、それすなわち、経済的財と交換可能な財を手にすることになる。そんな環境が、出来上がったと述べられています。

オースティン原作 映画『説得』の感想

19世紀以前のイギリス中産階級の恋愛事情を知るうえでは、とっても分かりやすい古典的名作です。没落する下級貴族の娘アン・エリオットと海軍大佐に出世したフレデリック・ウェントワースの、7年越しの復活愛がテーマです。

階級に釣り合う、一族が認めた男女仲が恋愛=結婚を決めていた当時のイギリス。アンとウェントワースは、その道徳的なラインを踏み越えて接近します。2人をかつて引き裂いたのは、タイトルにもあるラッセル夫人(未亡人)の「説得」でした。その説得の内容は深く語られませんが、出世前のウェントワースが階級に合わないから別れなさい、というものだったと容易に想像がつきます。

『なぜ愛に傷つくのか』で述べられる通り、2人が相手の価値を認めるポイントは、性的魅力ではありません。アンはウェントワースの海軍総督を目指せる才能と努力を讃えます。いっぽう、ウェントワースはアンの知性の高さと判断力を頼りにしています。2人は、たとえ周囲が「ウェントワースはハンサムで海軍中佐」と褒めそやす環境であっても、第一に互いの品性を認め合うのです。ここからは、配偶者選択の基準が第一に品性にあったことと、周囲の人々がみる「2人の恋愛の逸脱」は、7年前時点の「階級の隔たりにこそあった」ことが、読み取れます。

私は現代の愛に囚われているので、「なんでこの男/女を好きになったの?」と恋愛映画に文句をつけがちです。ですが、アンとウェントワースは、恋愛が儀礼的で集団道徳的だった時代に、しっかり言語化していて、ある意味観衆に「わからせてくれる」セリフに満ちていました。

読みながら連想したこと

「官能資本」とは、他者から官能的反応を引き出すものの量と質として観念されるそうです。これは、性的な闘技場の場で、蓄積可能・交換可能という意味で、資本です。
この「官能資本」をめぐる現代日本の現象として、「男磨き界隈」「テス活(テストステロンの強化活動?)」を想起しました。

例えば、「ジョージ -メンズコーチ-」というYouTuberがいらっしゃるそうです。私は視聴したことがないなりに、どういう界隈か理解しているつもりです。実感するためには視聴するほうがいいかもしれません。

その界隈では「官能資本」とは奔放な性の経験ではなく、むしろ禁欲・筋トレ・我慢といった性の自律経験(?)の蓄積が、将来の「男性内の競争に勝つ ≒ 美女を配偶者に選ぶことができる」という考え方のようです。この章で述べられている内容との類似点を挙げれば、性的魅力のある人間に価値があるので、肉体美を獲得して圧倒的な性的魅力が目指される点です。いっぽうで相違点を挙げるなら、将来的に美女と交際するために、「今は禁欲し、性的な魅力を蓄え、いずれ官能性を身につけたら多くの圧倒的美女を従えよ」という考え方をしている点です。さて、「今は禁欲」という心掛けを殊勝に感じて受け入れるのが素直な受け取り方でしょうか…?

私はそうではなく、この「男磨き界隈」「テス活」の最終目的がミソジニーと極めて近いゴールであることから、「危ないなぁ」と感じます。彼らは官能資本を「性的自律」として捉え、熱心に禁欲し自らを鍛錬します。しかしそれは配偶者獲得のための「献身」や情緒的なアプローチから距離をとり、男性内の厳しい競争・プレッシャーをさらに煽るだけの帰結が見えます。最終的には、男性たちが羨む女性を従えること、自分が献身しなくても自身の官能的魅力で圧倒することを目指している意味で、加害的ですらありそうです。

しかし現象として面白いのが、本書で述べられるような性経験の豊富さこそが「官能資本」とされるのが一般的に思えるいっぽう、性経験をあえて持たない自己鍛錬を手段として蓄積する「官能資本」が、確かに彼らに見られることです。

第2章、再読すると新たな気づきがありました。



いいなと思ったら応援しよう!