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①『なぜ愛に傷つくのか』読む動機〜第2章


本書の概要

なぜ愛に傷つくのか』は、社会学の立場から、現代の人々が「愛」ゆえに傷ついている状況を歴史的・文化的に読み解いている書籍です。著者エヴァ・イルーズは、イスラエルのヘブライ大学の社会学教授。彼女は、①感情資本論を軸にした理論的関心、②心理学的な知見と自己の関係を論じる社会学、③文学・映画などを題材にした消費文化論、の3つを中心に広がりのある研究領域をもちます。本書はそのミクスチュア(混合物)であり、心理学的ではなく社会学的文脈において『なぜ愛に傷つくのか』に迫る、十分にアカデミックな書籍と思われます。

私が本書を読む動機

私がこの本を読む動機は、直接的にいえば、友人の「この本で読書会しませんか!?」投稿にモチベートされたことです。さらにモチベートされたことを具体化するならば、アカデミックな論考を友人たちと一緒に読むという「ゼミ気分」を味わえると期待したからです。そんな経緯で、4,000円もするこの学術書を買って、読書会主宰者の1人になっています。

こうではなく、内容に踏み込んだ動機でいえば、この本の通読・読書会を通じて自分の認識や発信が洗練されることを期待しているからこそ、私はこの本のページを繰っています。

まず、著者の問題意識と近いのですが、現代における愛をめぐる傷つきの経験はあまりに個人の心理学的・経済的要因と分かち難く結びつけられてしまっている、と私も捉えています。次に、そうした愛をめぐる傷つきの認識は、物事の見方として間違っているうえ、非効率的で愚かな理解だろう、とすら私は考えています。というのは、愛をめぐる傷つきの経験が語られるとき、聞き手がすることといえば、一個人に対する過剰な個別化や同情か、または、凡庸な一般論・多様性論のリピート、のどちらかにふれているではありませんか。こうした考えやある種の憤りを乗り越えるために、この本の視点は有益だと信じます。すなわち、愛に対する価値観を形作る制度的なパワーやストラクチャのために、現代で生きているとどうしても愛に傷つきやすくなる仕組みが成り立っているのだと、理解が深まるはずです。

この理解が深まることで、仮に今後私が愛のために傷つきうる状態になっても、より論理的に問題を解決できるでしょう。仮に友人の相談を受けるとき、時間的・環境的・文化的な差異を踏まえて、悩める友人の問題把握を助けられるでしょう。非常にアカデミックな書きぶりの本とはいえ、大いに実用的なメリットがあるでしょうから、読書会のテーマとして、学びが得られるものと信じます。

なんとなく要約

第1章「はじめに ー愛という名の不幸」と第2章「愛の大転換/結婚市場の誕生」の2章分を読み終えたところで、私なりの読みのポイントを整理しておきます。

第1章は簡単には、著者のスタンスの自己紹介です。例えば、「近代」の定義を第一次世界大戦以降と狭く定義しているのですが、これは19世紀に初めてその名をもった「社会学」を専門とするイルーズのスタンスの表れです。彼女によれば、自己とアイデンティティの形成が個人のテーマとなった近代以来、私たちの願望や経験は社会的・集合的なものであるにもかかわらず個人史の問題/心理の問題として個別化されてしまっています。具体的には、恋愛関係における精神的苦痛は、近代が生んだ社会的・集合的経験の最たるものありながら、心理カウンセリングやカップル・セラピー、自己啓発の範疇で対処することに私たちは馴らされている、と言えます。

第2章は一言にするなら、結婚市場が近代以前と近代とでどのように質的に変わっているか、を論じています。ざっくり言えば、近代以前の中産階級では、結婚相手の候補は地縁血縁関係の網の中にあり、道徳・品性・一貫性のようなキーワードで人物が評価されていました。近代に配偶者選択の基準が集団によるものから個人の嗜好に移るなかで、個人化された唯一の自己同士の相性、および、性的魅力とセクシーさが強調されてきました。近代以前は、感情的な相互行為を公的・規則的に儀礼と役割でもって合理的にコントロールされており、結婚を通じた階層移動が限定的でした。一方、近代以降、恋愛的選択は個人が性・心理の相性を重視し、社会の側で性的魅力のヒエラルキーが成立するなかで、消費社会の経済が個人の欲望を組織するようになりました。私なりに噛み砕くと、集団の儀式として1つの階層のルール内で近代以前は選んでいた配偶者を、近代以降は個人の趣味嗜好で経済階層と性的魅力階層の2つを天秤にかけ、自分の位置を見定めながら振る舞うようになった、というまとめでしょうか。

読みながら連想したこと

高度にアカデミックな視座から論じられる本書にもかかわらず、私は実例や普段の問題意識に引きつけて読み始めています。

あえて書き出してみることで、自分が内面化している偏りや怨念(笑)が炙り出されるかもしれないので、それに期待して。

出席する結婚式が、同類婚のお披露目に見えてしまう現象
私がゲストに呼んでいただけるような結婚式は、「感情的に相性がよくて」結ばれた結婚だということがフューチャーされるような構成に仕上げられています。が、近い階層の家庭同士が、個人史にて読み込んだ配偶者選択基準でいかにも「感情的に結ばれた」物語になっているのが、滑稽に思えてしまうことがあります。選択基準が高度に個人化されているのは確かですが、血縁地縁の色が薄い友人を集めた披露宴は、同程度の階層ばかりが集まって(予定調和的に)カップルを華々しく承認している儀式だという点で、集団的道徳的で前近代的でしょう。その事実は明らかなだけに、個人同士が結ばれたというストーリーは、強調が過ぎると思ってしまいます。

②恋バナ収集ユニット「桃山商事」のリスナー投稿
第1章の、恋愛関係をめぐる精神的苦痛がもつ集団性について、私が好んで聴いている桃山商事の「恋愛よももやま話」を思い出しました。あるテーマ(例:甘え/比較/別れ)で投稿を募集して固定メンバーが雑談するこのPodcastでは、類似の投稿が多く集まるそうです。つまり、個別に投稿されているリスナーさんたちは、誰かに伝えたくなる精神的苦痛を非常に似通った形で経験しているのでしょう。では、このような苦痛に対する集団的な対処は、どのような実践がされているでしょうか。桃山商事の事例のように、悩む個人が個別の苦痛は「私だけじゃなかったんだ」と気付くことの効能については、本書でなんらかの言語化がされるでしょうか。
(ちなみにこのコーナーは現在改称して恋愛以外のトピックを幅広く扱うようになっています。)

noteまとめ第2弾(第2章編)を書きました。こちらから読んでいただけると嬉しいです。


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