見出し画像

【小説】アリス

 三月の事だった。梅の花が咲き、淡く揺れる影を地面に落としていた。その日、彼女は朝から兄の部屋にあるピアノ――黒のアップライトであった――を弾いていた。年に一度、調律がなされていたので澄んだ黒い音で鳴った。時刻はおそらく午後2時だったであろう。彼女は手を止めると、机の上に置かれた携帯電話に着信の知らせが届いていることに気が付いた。気が付いたが、掛け直す仕草をすることは一切無かった。電話を掛けてきた相手は父であった。ピアノ用の椅子に腰掛けたまま、彼女は慣れた手つきで箱から煙草を取り出すと火を点け、携帯電話を見つめた。再び電話が鳴りだしても、彼女は直ぐに出ることはせずに、灰を落とし楽譜を見つめた。楽譜は悠然とそこにあり、その役目を待っているようにも思えた。
「佳澄、どうして直ぐに出ないんだ。もう二度も掛けているんだ。三度目の正直という言葉があるが、まさにその通りだったよ。何かしていたのかい? 」
 彼女は電話に出るなり、一度切ろうとしたが、思い留まり再び携帯電話に耳を傾けた。
「それはあの――そうよ、丁度お茶を淹れている時で、きっちり時間を計って飲んだ方が良いっていう話をお兄様はしていたわ。それにね、お父様。あたし――」
「兄? いや、彼――君のお兄さんは確かにそう言ったのかい? 」
「変なことを聞かないで、お父さま。『そう言ったのかい』って、紅茶のことでしょう? ――確かにお兄さまは、そう言ったわ。『紅茶は先にカップを温めるべきだ』『時間は茶葉によって違うが、フルリーフであれば四分は置くべきだ』ってね」
 彼女は再び、彼がむせたのを聞いて、うんざりした表情で電話を耳から遠ざけた。
「いや勿論、彼はそう言ったかもしれないし、彼の言葉に対して異を唱える気は一切無いのだけれど――」
「勿論、そうだと信じているわ。お兄様いつもお父様を尊敬していたわ。あんな風になってしまうまではね」と彼女は言った。
「――そうだったね。先ず用件を手短に話すとしよう」
「ええ、そうして頂けると助かるわ。だってあたし、さっきも話したようにね、お父さま、お茶を淹れていたのよ」
「それは分かったよ。けれどね、佳澄。私の話を――」
彼女は足を組み、そして灰皿に灰を落とすと再び携帯電話を耳にあてた。
「聞こえているのかい、佳澄」
「ええ、聞こえているわ、よく――」
「私は心配しているんだよ。君も彼のようになってしまうんじゃないかってね。本当さ、本当に心配なんだ」
「分かっているわ、だから心配しないで頂戴よ。私はちゃんとやっているわ」と彼女は言った。
「それにね、お父様。この電話、とてもよく聞こえるのよ。だから何度も言わなくてもちゃんと聞こえているわ」
 彼女は灰皿に煙草を押し付け、火を消した。
「用件というのは、他でもない。今夜は帰りが遅くなりそうなんだ。困ったことに――」
「お父様」と彼女は口をはさんだ。
「『困ったことに、会議だかなんだか知らないけれど』でしょう。分かっているわ、あたし――」
「そうか。いや、分かってくれているのならいいんだ」
「でもね、お父様――あたし、あの人を迎えに行くのは嫌よ。だって、この前もお父様の帰りが遅くなった日に迎えに行ったことがあるでしょう。確か去年の十一月の――何日だったかしら」
「二十三日だ」
「そう、その日。あたしの車で駅まで迎えにいったのはいいけど、あの人、あたしに何って言ったと思う?」と彼女は言った。
「それは確かに、私が彼女に言っておかなかったことが悪いと思っているよ。でも、だからといってそこまで嫌わなくてもいいじゃないか。佳織が亡くなってから、もう三年になるんだから。それにね、佳澄。私は――」
 彼女はいよいよ嫌になって、通話終了ボタンに指を掛けた。しかし、観念した表情で再び電話を耳にあて、溜息を吐くように言った。
「『まあ、いい車ね。きっとこれも貴女のお父様に買ってもらったものなんでしょうね。彼とても良いセンスをしているわ』ですって」
「なんだって?」
「彼女がそう言ったのよ、この前ね」
「間違ったことは言ってないじゃないか。それにね、佳澄。彼女は君を褒めていたよ。『今時にしては珍しく、よく出来たお嬢さんだ』ってね」
「でも嫌だわ、あたし。だって、あの人が乗った後の車がどんな匂いになるか、お父さまには想像がついて? あのひどい香水の匂いったらないわ。あたし、あの人を乗せた後はきちんと換気をすることにしているの」
「それでも――彼女は君が思っているよりずっといい人だよ、本当さ。だから――」
「それで、再婚したいだなんて言わないわよね、お父様。とにかくあたし嫌よ、あの人の娘になるなんてね。お兄様だって、きっと同じことを言うわ。今はどうか分からないけれど、きっとね」
 彼女は「きっと」の部分を強く発音した。
「そうじゃない、そうじゃないんだよ。だからね、私の頼みというのは、今度の休みの日に彼女と食事をして欲しいんだ」
「なんですって!」
 彼女は驚いたように手を口に当てて言った。
「――冗談はよして、お父様。あたし、あの人と食事になんて行ったら、きっとおかしくなってしまうわ」
「そんなこと言わないでくれ。彼女の方から言いだした話なんだ。私は――彼女のことをもっと知ってもらう為に快諾したよ」
「まあ――」開いた口が塞がらないといった顔つきで、彼女は鍵盤を見た。
「とりあえず、予定は空けておいて欲しいんだ。いいね?」
「仕方がないわね、分かったわ」
 彼女はそう言うと、再び煙草に火を点けた。
「ありがとう」
「いいえ。ところで――先程のお話だけれど」
「うん? ああ――今日は一緒に行くことが出来ないんだ。だから佳澄、悪いが彼のところへは一人で行ってきてくれないか」
「分かったわ。今日は久しぶりに、お兄様はお父様に会えると思っていたでしょうから、悲しむと思うわ」
「それでは、彼の事は頼んだよ。それから――」
「なに?」
「先生にもきちんと挨拶をしておくんだよ、分かったね」
「ええ、分かっているわ、お父様。それではね」と言って彼女は電話を切った。灰皿に溜まった吸い殻の上に吸いかけの煙草を押し付けた。そして再びピアノを弾いた。それは先程とは違い、白い音で鳴った。
 
 
 両親が姉と共に帰ってきたのは夕方頃だった。
「お帰りなさい。お父さま、お母さま。今日はなんて日なのでしょう。私、つい今の今までお菓子を焼こうかなんて思っていたのよ。珍しいでしょう。前にお母さまが言っていたマドレーヌにしようと思っていたのだけれど」
 そこで、私は両親の背後にいる華奢な男に気が付いた。大きなボストンバッグが肩に掛けられていた。端正な顔立ちではあったが、表情は曇り、陰鬱さまで感じられる程だったが、どこかで見たことがある顔だったような気がした。
「あら、お客さんがいたのね。私、つい姉のことばかり考えていたから気が付かなくって。そう、よく緑子にも叱られたわ。『貴女は気が利かない人だ』ってね」
 そこで一息つこうと思ったが、父は言った。
「佳澄、きいてくれ」
 そう言った父の顔は「真剣」そのものだった。
「なに、お父さま」
「この子――彼が佳織だ」
「まあ、なんですって。お父さま、冗談はよしてください。私、そういうの好きでないの。だって、今まで何年も会っていない『お姉さま』が『お兄さま』になって帰ってきたなんて嘘、よね」
「佳澄、私が君に嘘を言ったことが一度だってあるかい」と父は絵に描いたような「困った」顔をした。
「いいえ、一度も無いわ。でも、そんなの何と言って良いか分からないけれど、どうしましょう」
「私たちも未だに信じられないんだ。まさか三年前に居なくなった佳織が、男になって帰ってくるなんて」
 父は文字通り「どうしていいか分からない」といった顔をした。
「それは――悪かったね」
 男は突然口を開くと、そのまま話を始めた。
「僕だって好きでこうなったわけじゃない。けれど、どうしてなんだ。どうして僕がこうならなきゃいけないんだ。そんな問いをしたのは百回や二百回どころじゃない」
 男は下を向いたまま言った。その声は酷くノイズがかかっていたが、微かに姉のものであると分かった。
「えっと、どう言っていいか分からないけれど、お姉さま(本当はこの時、『お兄さま』と言うべきだったのかもしれないけれど、私は反射的にそう言ってしまっていた)」
 兄は何も言わずに此方に注意を向けた気がした。
「お帰りなさい」
 私がそう言うと、兄は「ああ」だか「うん」だか分からない返事をした。とてもぎこちないやり取りであったが、私は姉が――どんな形であれ戻ってきたことに安心した。
 その日の夕食は三年ぶりに家族が全員揃った。私と母は用意を済ませ、母は父を、私は兄を部屋まで呼びに行くことになった。
「お兄さま」
 ノックしたにも関わらず、部屋から音がしない。
「勝手に入りますよ」
 私はゆっくりとドアを開け、中の様子をうかがった。兄はベッドに座り、ただぼんやりと宙を見つめていた。座っているベッド、書棚、カーテンの模様、机、どれ一つとっても今の兄には不釣り合いだった。しかし、それはどれも兄のものであることに変わりは無かった。三年という時間を経ても尚、兄という存在に所有されることを望んでいるようにも思えた。
「久しぶりの家はどうですか」
 私が言うと、兄はゆっくりと此方を見て、また視線を宙に戻した。
「とても落ち着く。どれくらいかと問われると困ってしまうけれどね」
 私は自分から訊ねておいて、それ以上言葉を続けることが出来なかった。けれども、確かに溜まっていた澱みが少しずつこの部屋から消えていたことだけは感じ取ることができた。
「そろそろ、夕食だね」
「はい、その為にお兄さまを呼んでくるようにと言われました」
「そんなにかしこまらないで欲しい。君はこの家のメイドではないだろう。とは言っても難しいかな。僕はこんな風になってしまったけれど、君の姉――いや、兄か――であることは変わらないのだから」
 兄はポケットから何かを取り出すような仕草をして再び此方に視線を向け、手を止めるとまた視線は天井に戻った。
「そう言われても、あんまりだわ。だって居なくなった三年前から今まで一度だって連絡をしてきたこと無かったじゃない」
「連絡は、何度もしようと思ったさ。けれども考えてみてごらんよ。僕はこんな風になってしまっている。どう説明したって信じてもらえるわけがない。声だってこの通りだしね」
 確かに、今の兄の声を電話越しで聞いたとしても、姉であった人物の顔は浮かんでこないだろう。
「それから、佳澄」
 兄はいつの間にか此方を見ていた。
「どうしましたか」
「ただいま」
 ただ、それだけの言葉だったのに、私はひどく驚いた。私の知っている姉は確かに礼儀正しく言葉の端々にも気を配る人であった。そのため、今の言葉は先程の玄関でのやり取りに対する応答であり、姉ならばそう言うであろうことも想像がつく。しかし、今の言葉を「不意な言葉である」と捉えた私には、目の前にいる兄がどうも姉とは別の人間に見えていたのだということに気付かされたからだった。
「さて、そろそろ行こうか。僕の記憶が正しければ、そろそろお母さまが痺れを切らしている頃だ。ただでさえ、こんな見て呉れなのに更にお母さまの機嫌を損ねたとなっては、針の筵に座っているようなものだからね」
 茶目っ気たっぷりに微笑む兄を見て、私は「ああ、やはり姉なのだな」と納得しながら兄の後を追い、リビングへと向かった。
 リビングでは、母が少し不機嫌になっているようにも見えた。父は「嬉しさ」をに満ちた表情をしていたので、どうやら兄は針の筵には座らずに済みそうだと思った。
「佳織――いや、今は薫だったか」
 最初に口を開いたのは父だった。
「外ではそう名乗っていたけれど、家ではどちらでもいいよ」
「そうか。では、佳織。三年間どうしていたか、みんなに話してくれるか」
「ああ、うん。まあ、話しても長くなることじゃないんだけれどね――」
 そう言って、兄は話始めた。彼の話をまとめると、彼は(今となってしまえばこの書き方はかなり違和感があるが)どうしても自分が「男である」という感覚から抜け出せなくなった――昔から「女らしさ」を強要されていた自身が嫌で仕方が無かった――長女であった手前、そういったことを口にすることも出来ず、その感情は日増しに強くなっていった――十九歳のあの日、それに耐えられなくなった家を逃げるように飛び出した――ということであったらしい。その後は着の身着のままで京都へ向かい、憧れていた職人として住み込みの働き口――左官だそうだが――を見つけ、以来ずっとそこに住まわせてもらっていたのだという。その時の給料を貯め、適合手術も受けたのだそうだ。
「今月の初めに、その棟梁が亡くなってしまってね。奥さんが一度家に帰ったらどうだって言ってくれたのさ。それで、当分暇をいただいて家に帰ることにしたんだ」
 兄は事も無げにそう話す。兄を除く全員が黙って聞いていた。父は途中「涙を拭う」仕草をした。
「そうだったのか。それは辛い思いをさせてしまったね、佳織」
 父は今にも「泣き出しそうな顔」をしていた。
「そうでもないかな。こうなることは分かっていて家を出たんだ。だから、僕は後悔もしていないんだ。嘘じゃないよ」
 皆が兄を見ていた。兄は誰でも無い場所をただ見つめていた。けれど、どこか兄の言葉に三年の空白が生み出した重さがつきまとっているように思えた。それは、この場所では無いどこかの匂いがした。
 次の日、兄は皆と同じように起き一緒に朝食をとった。
「お兄さま、珈琲はいかが」
「ああ、貰えると嬉しい」
 私は白いマグカップに珈琲を注ぐと兄の前に置いた。
「ありがとう」
 やはり、兄の言葉はどこか姉のものとは違った印象を受けた。
「いえ、どういたしまして。ところでお兄さま、昨日はちゃんと眠れましたの。何かうなされていたような気がしたのだけれど」
「そうか……聴こえてしまっていたんだね。まあ無理も無いか、隣の部屋だからね。それで心配させてしまったのなら申し訳ない」
「そういうことではないのよ。きっといきなり環境が変わってしまったら、そうなるのは当然だと思うから」
「ああ、そうか。君も名市大(名古屋市立大学の略称である)だったね。確か僕も心理学で同じことを教わった記憶があるよ。環境の変化に伴い、心理的抑圧が身体に影響を及ぼすということだね」
「はい。だから少し心配してしまって」
「確かに、抑圧状態が長く続くのは良い傾向ではないね。けれども考えてごらんよ。生まれてから十九年も過ごした家で心理的な抑圧を感じ続けると思うかい」
「いいえ、けれども変化というものは何かしらの影響を与えるものだわ」
 姉は客観的な事実に対して主観を織り交ぜて話をすることができる人間だった。そういったことは変わらないのだと思うと、やはり目の前のこの男性は姉なのだと意識せざるを得なかった。
「音域が違うからだろうね」
 兄はそう言うと言葉を続けた。
「女性と男性とでは、声帯が出す振動の幅が違うだろう。勿論、今の僕の言葉は姉――つまり僕だけれど――のものだけれど、聞こえてくる音域は違う。そこに違和感を覚えてしまうのも当然だと思う」
 その通りだった。姉の言葉を兄の音で聴いている私は、どうしてもその意味を上手く認識することができていない。丁度、英文を日本語に訳しながら理解していることと等しいのである。
「きっと、そのうち慣れると思うわ。だって私、お兄さまの煙草の匂いにもう慣れたんですもの」
 私がそう言うと、兄は少し照れたように言った。
「なんだ、気が付いていたのか。僕はてっきりまだ誰も何も言わないものだから気付いてないものだと思っていたんだけどね」
 そう言うなり、兄はポケットから煙草を取り出すと火を点けた。
「どうも、肉体労働をしているとこれが手放せなくてね」
 煙は宙に舞い、そして消えた。後には匂いだけが残った。
 
 
 
 それから一週間も経つと、兄は元の生活を取り戻していった。姉であった頃と変わらない生活だった。
「君は――そうか大学は休みなんだね」
 兄は煙草に火を点けると、煙を吐くように言った。
「ええ、今は春休みですからね。けれども、来年度からの実習の為に何度か行かなければならないわ」
 私は机上にあった硝子製の灰皿に目をやった。父の煙草の吸殻と兄の吸殻があった。
「それにしても、お兄さまはこの数日ですっかり変わったのね。だって、こんなにも馴染んでいるもの」
「そうかな。まだ僕は慣れないよ。ところで佳澄、今日は何か予定はあるかい」
 兄は灰皿に灰を落とすと、そう訊ねた。
「いいえ、何も」
「だったら少し付き合ってもらえないか」
 兄は少しだけ細めた眼で此方を見た。
「ええ、構わないわ」
 そうして、兄と私は初めて二人で出掛けることになった。
 雅寧舎茶館は覚王山通りから小道に入った場所にひっそりとあった。大学からの帰り道、緑子とよく来る場所であり、姉ともよく来た場所でもあった。
「ねえ、お兄さま。やっぱり私、『お兄さま』という言葉に違和感があるわ。だって、今まで『お姉さま』と言っていたのに、『お兄さま』と呼ぶことになってしまったのですから」
 雅寧舎茶館は、大正時代に建てられた洋館を改築し喫茶店として現在も営業を続けている。
「そうだろうね」
 兄はそう言うと、曇った表情で煙草に火を点けた。
「僕ですら、まだ女性だった頃の記憶が鮮明に残っているよ。あの時もそうだった。家を出た日だ。鞄に荷物を詰めながら、自分の今後を考えていたんだ。今から自分は男なんだってね。おかしいものさ」
 そう言うと兄はアイスチャイを飲み、何か少し悩む仕草をした。
「そうかしら。私は、お兄さまの選択は正しかったと思っているわ。それにしても、京都に行ってすぐにお仕事が見つかるものなのかしら」
「ああ、そのことか」と兄は思い出したように言った。
「棟梁には、事前に連絡をしていたからね。今でも覚えているよ。僕が初めて電話をかけた時、最初はとても固い声で話をしていたのだけれどね、段々と僕の話を聞いているうちに穏やかな口調に変わっていった。同情するでも無く、ただ話を聞いてくれていたようだったな」
 そう言うと兄はじっとグラスを見つめた。
「棟梁も最初はね『女がやるような仕事じゃない』って言っていたよ。勿論、僕の心は男だっていう話はしていた。けれども、やはりそういう事では無いのだろうね」
 そこまで聞き終えて、私は兄の表情から曇りが消えていることに気が付いた。
「向こうに着いてからは毎日が勉強だった。元々、とても興味のある仕事だったから、出来る限り調べて行ったつもりだった。けれども、知っていることと出来ることは違うからね。君も、それはきちんと理解しておいた方がいい」
「同じ技術職としてね」と兄は付け加えた。

作品解説

これは、2014年に私が書いた『メランコリアにうってつけの日』という小説の初稿である。ここから『メランコリアにうってつけの日』は生まれた。当時、サリンジャーの野崎訳を読んでいたこともあり、饒舌体で小説を書くことにしたのである。今でも、饒舌体で小説を書くことがある。ファイル名が『アリス』だったため、そのままここに載せたのだが、今読むと違和感しかない。何がアリスなのだろうか。読み返して思ったのは、佳織の方がアリスっぽいなということである。自分の性に嫌気が差して、京都の左官に弟子入りをした佳織は、師匠の逝去のために3年ぶりに帰省するという、説明してしまうと身も蓋もない話である。しかし、佳澄に比べると純粋な印象を受ける。自身の性に縛られそれを享受する佳澄と、その頸木に嫌気が差して適合手術を受けた佳織。どちらの方が純粋なのだろうか。

いいなと思ったら応援しよう!